ホーリー 第一部
 雨が降っていた。ザーザーと。スピーカーからは television の marquee moon が流れていた。A面四曲目のタイトル曲。初めて聴いた円盤の音楽。ぬめった質感の金属音が、空気を、霧を、切り裂くように響いて、ぼくの心に突き刺さった。巧みに構築されたアンサンブルがぼくを夢中にさせた。そして、やがて後に知ることになったその歌詞は、余計にぼくの胸を熱くさせた。言葉がわかれば其処に宿る熱情も、切実な声の響きも、より近しいものに感じられる気がした。ぼくはくだらない世界に生きながら、ものわかりのいい大人たちに適当にあしらわれながら、迷いながらももがく若者の姿を其処に見た。あたりまえに、今とは違う世の中だったのだろうけれど。

「お~い、もっと明るい曲かけようぜ」
 ひとりで呑みにきていたお客さんから、声をかけられた。ちょくちょく見かけるおじさんだけれど、こういうことを言うのは珍しい。というか、ぼくの知る限りでははじめてだ。いつもひとりで店にきて、そのとき流れている音楽に耳を傾けて、静かに呑んで帰っていくのに。ぼくは、とりあえず無難に the beatles の please please me でもかけようと、円盤の並ぶ棚に手を伸ばした。すると、マスターがそっとその手を制する。そして店の奥のほうから、ザ・ハイロウズのバームクーヘンと、私物の安酒を持って戻ってきた。マスターは持ってきた円盤をかけて、スピーカーの音量を大きくしてから、ブラックニッカというその安酒をロック・グラスになみなみと注いで、おじさんのそばまで持っていった。
「ほら、サービスだ」
 と言って、おっきな手で背中をバシンっと叩きながら、おじさんの前にグラスを置く。どこか遠いところでも見るような、そんな深い目で。マスターはなにも言わずにおじさんのすぐ隣に腰を下ろす。それから静かな仕草で、沈黙のなかにタバコの火を燈す。一口、いかにも旨そうに大きく吸い込んでから、ふう~~、と煙を吐きだして
「なにがあった」
 とぼそりと呟く。穏やかで、低い、包み込むような声で。
「ああ、バームクーヘンか、懐かしいな。それにこの安酒、昔よく飲んだなぁ」
 おじさんは、質問には応えずに、うれしそうにそんなことを云う。
「ああ、そうだな」
 マスターは、落ち着いた様子で、穏やかに、短く応える。それから、少し間をおいてから、おじさんは意を決したように、深くうなだれながらこう云った。
「なあ、おれは変わっちまったんだ」

 それからは、ほかのお客さんからの注文に追われて、ふたりの話は飛び飛びにしか聞くことができなかった。とりあえず、ふたりはどうやら旧知の仲らしい。それも、相当心の通い合った友人同士みたいだ。マスターは、ずっと深刻な表情でおじさんの話に耳を傾けていた。ふたりの過去に関することは聞き逃したけれど、とりあえずおじさんの身辺になにが起きているのかは把握することができた。一人息子が、霧にまみれた夢の中で、右手をなにかに食べられたらしい。そして、少年の右手は“からっぽ”になったらしい。“からっぽ”が重たくて、少年は何度も右手をカッターナイフで切りつけた。鋭い痛みと、流れる血の温もりが、“からっぽ”を埋めてくれる気がしたらしい。そうして、満たされないままに何度も何度も切りつけた。少年は、友人や親御さんを心配させないように、いつも右手の肌を晒さないようにした。暑い季節が訪れてからも、周りに適当な言いわけをしながら。おじさんがそれに気づいたのは、少年があまりに激しく手を切りつけ過ぎて、血がとまらなくなってしまったときだった。そう、遅すぎた。父親としては、あまりに遅すぎた。すぐに病院に連れて行ったので、からだはべつに大事に至らなかった。それでも、父親や母親が気づいてあげられないことが、いったいどれだけ少年の“からっぽ”を、孤独を、余計に膨張させたことだろうか。まったくもって、ぼくの言えた義理ではないのだけれど。だからこそ、おじさんがどれだけそれを悔いているのかも、ひしひしと、まるでじぶんのことのように伝わってきた。

 その話が他の席にも伝播したのか、それから、ほかのお客さんたちからも似たような話を幾つか聞いた。子供が霧にまみれた夢のなかで、何かに襲われたけれど命からがら無傷で逃げ延びたらしいとか、見たことのない友達と遊んだらしいとか、そんなことをべつになんの気なく、酒の肴にでもするように話していた。まったくなんの危機感も、切実さのかけらもなく。きっと、この人たちもみんな、取り返しのつかないことになってから、事の重大さに気づくのだろう。そして、あのおじさんのようにただ後悔するのだろう。じぶんのことを棚にあげて沸いて出てくる嫌悪感に、ぼくはまた心を引き裂かれる気分になった。 

 それから、普段はみかけないお客さんから、すごく不穏な気にさせられる話を聞いた。態度の大きい、偉そうなそのオヤジの娘さんは、二週間くらい前から家に帰っていないらしい。一応、居なくなった次の日に、友達の家に当分お世話になると連絡はあったらしいけれど、オヤジは「どうせ男のところにでも転がり込んでやがるんだ」と毒づいていた。親として心配してるとかそんなんではなく、ただじぶんの思いどおりに、じぶんのルールに娘が従わないことに虫唾が走っているようだった。まるでロボットに命令を背かれた御主人様のように、じぶんで勝手につくった“スジ”とやらを通していないことにむかっ腹を立てていた。ぼくは、はぁ、こいつタチの悪い駄々オヤジだな、と思った。塩振って追っ払いたかったけど、営業スマイルは絶やさなかった。ぼくはロックやこの店が好きで来てくれているとわかるお客さんには、あまり過剰に営業的な態度はとらない。失礼だと想うから。でも、おそらく適当に店を選んで入ってきたであろうこのオヤジには、おもっクソ人工的な満面の笑みで接客してやった。もちろん、向こうはこっちの皮肉には一切気づいていなかったけれど。まあ、皮肉っていうものはだいたいそういうものだ。放つ側の自己満足みたいなところがある。ともあれ、我慢をしてニコニコとくだらない言い分を聞いていたおかげで、あまりに不穏な予感に気づくことができた。

 二週間、といえば、あの仔と逢っていない期間と重なるのだ。しかも、そのオヤジは町外れの方に住んでいるらしい。その上、あの仔と話しているうちに感じていた父親のイメージと、そのオヤジの醸す雰囲気があまりにもダブついた。ぼくは居ても立っても居られなくなった。ずっとそわそわして、それからマトモに働けていたのかもあまり確かではない。なにも考えることもできずに、シフトが終わるまでの残り時間をただ機械的に、とりあえず大きなミスはすることなく、一応無事に切り抜けた。そして、タイムカードを押してから、すぐに着替えて、一目散に家に帰った。そうして、世界のことや、霧のことに想いをめぐらしながら太陽を待った。朝が訪れて、不穏な予感を確かめに行くそのときを。

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