恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
私がにじむ視界を彼女へ向けると、獲物を射抜くような鋭い視線を向けられた。
「翠さん、何を言って……」
「十夜さんったら、照れちゃって」
十夜さんが顔をしかめるのも構わず、翠さんは着物の袖から覗く細い腕を、十夜さんのそれに絡ませた。
「離しなさい」
「いいじゃないですか、少しくらい」
十夜さんは翠さんに注意し、振り払おうとするが、彼女がそれを離すことはない。
結婚することを知った今では、二人がじゃれあっているように見えてしまう。
「どうぞ、お幸せに……」
そんな二人をこれ以上見ていられなくて、私はお手洗へ行かず、部屋へ戻ることにした。
「凛子さん!」
踵を返す私に十夜さんが声をかけてきた。
余裕がなく聞こえるのは、そうであって欲しいと願う私の想いからだろう。
足を止め、でも十夜さんの姿を見ることはできなくて。
「十夜さん。もう、夏祭りは……いいですから」
振り返らずに、震えた声で精一杯強がってみる。
「凛子さん、結婚は……」
「別に、上辺だけの愛想ならいりません。大丈夫ですよ。そんなことしなくても、益田呉服店は利用しますから」
本当は一緒に行きたい。誘われた時、すごく嬉しかった。
でも私はまだ、十夜さんから向けられる微笑みを、愛想だと割り切れるほど大人じゃない。
「凛子さん……!」
十夜さんの声には振り向かず、私は早足で美里と御堂くんがいる個室へ戻った。
「凛子、遅いよー……って、どうしたの!?」
酔ったように話しかけてきた美里が、私の姿を見るなりすぐに声を落とした。
「な、なんでもないよ!」
二人に全く関係がないことだ。それにこれから真剣な話がある。暗い顔をしていちゃいけない。
私は慌てて笑ってみせたが、それを見た美里は深く眉根を寄せた。
「なら……なんで泣いてるの?」
「……え?」
言われて気付いた。私の頬に流れる、酷く冷たい涙に。
わかっていたはずなのに。五年前から変わらず、私だけ十夜さんに想いを寄せていたと。だから、泣くほどのことじゃない。
そう思うのに、涙は次々に溢れ出す。
「リンリン、何があったんだ? 変な酔っ払いに絡まれた?」
御堂くんが私の側に寄ってきて、肩にそっと手を置いてくれる。とても優しくて、大きな手。
「ううん……何でもない。ホント……ごめんね」
グシャグシャの泣き笑いになり、私はハンカチで顔を覆った。
やっぱり昨日、想いを伝えておけばよかった。そうすれば例え届かなくても、こんなに辛くなかったかもしれない。
少しの後悔と、言葉にできない胸の痛み。
部屋の入り口から私の席までほんの数歩だというのに、御堂くんは私が腰を下ろすまで側にいてくれた。
「ごめんね……ホント。もう大丈夫だから。あの、よかったら話の続きを……」
気持ちを落ち着かせるために、お手洗いへ行ったのに。反対に動揺の嵐。
それでも精一杯笑ってみせると、二人は顔を見合わせて、アイコンタクトを交わした。
「あー……話はさ、たいしたことないから。また別の日にでも……」
御堂くんは私に気を使ってか、気まずそうに頬を掻きながら話を濁した。それから何か思いついたのか、パッと明るい表情に変える。
「そうだ、リンリン。さっき俺とミサミサで話してたんだけど、三人で夏祭り行かない?」
「あっ、そうそう! きっと楽しいよ?」
「夏祭り……」
その単語に、胸が抉られたようにズクンと痛む。
「花火も今年結構上げるみたいだし。今週末だろ? 何あったか知らないけど、気持ちも明るくなるって」
「御堂くん……」
それこそ御堂くんの笑顔が花火のように輝いている。その隣で美里も微笑みながら、賛成の返事の代わりに頷いていた。
十夜さんと行けないなら……。
「……うん。浴衣、買ったし……着て行こうかな」
「おー。いいね、リンリンの浴衣姿かぁ。ミサミサは?」
「え、私も? 御堂くんが見たいって言うなら着て行こうかな」
美里が冗談めかしてはぐらかすと、御堂くんも大袈裟に両手を合わせて「ぜひお願いします」と頼み込んでいた。
温かなその光景に、私は自然と笑みを零していた。
* * *
「お姉ちゃん、ついて来てくれないの?」
裕子に、益田呉服店へ付き合うと約束していた日の朝。
私が断ったら裕子は目を丸くして、もう一度確かめるように聞いてきた。
「ごめん、一人で行って?」
「仕事帰りに一緒に行こうって。夕方、駅まで来てって言ってたのに……」
裕子は口を尖らせて、うらめしそうな顔をする。
「ご、ごめんね。最近、仕事が忙しくって」
私は仕事のせいにして、謝った。本当は何もないはずだけど、少しだけ残業をして帰ろうと思う。
十夜さんには会いたくない。諦めるには、時間が必要だ。
なのに、それを邪魔するかのように、十夜さんから何度か電話があった。改めて話をされるのだろうか。今の私には、話を聞く余裕はない。
もっと気持ちが落ち着いたら、その時に話を聞こうと思う。想いは伝えず……。
さすがに仕事が理由だからか、それ以上裕子は無理を言わなかった。
「いいよ、もう。一人で行く」
「ありがとう」
「あ、ねぇ。お姉ちゃんも夏祭り行くんでしょ? 誰と行くの? もしかして若旦那?」
裕子は勘がいいというか、空気が読めないというか。今の私にその“若旦那”は禁句だ。
「違うわよ。同期の子たちと」
「ってことは、御堂くんか。もしかして好きなのは、若旦那じゃなくて御堂くんなの?」
「変なこと言わないでよ」
私は裕子を軽く叱ると、仕事へ行くため家を出た。
バス停へ向かう途中、裕子の言葉が頭を巡り、御堂くんの凛々しい顔が思い出された。
御堂くんはただの同期。
浮かんだ御堂くんの顔をかき消すように、小さく頭を振ってバスへ乗り込んだ。