恋衣 ~呉服屋さんに恋して~


「お祭り、もう少し楽しみましょうか」
「はい」

 頷く私を確認すると、十夜さんはゆっくり歩き出した。
 遠くで、花火に歓声を上げる人々の声が聞こえる。

「どこか花火が見える所へ行きましょう」
「は、あっ……」

 十夜さんの言葉に答えようとすると、間に人が入り見えなくなった。
 すぐに足を走らせ、十夜さんに追いつくが、これではまたいつはぐれてもおかしくない。
(近づいたと思ったら離れて……それは、もう耐えられません)
 見ているだけでは足りない。もっと、近づきたい。
 その気持ちがいつもより私を大胆にする。

「十夜さん……!」
「はい」

 ゆるりと向けられた流し目が私を捉える。
 歩くのを止めた十夜さんと距離を詰め、私はためらいながらも手を伸ばした。

「あの、ここを……持っていてもいいですか?」

 十夜さんの浴衣の袖を握ると、彼は目を微かに見開いた。
 浴衣を掴んだ私の指先はわずかに震えている。それに気付いた十夜さんは、クスリと笑みを零した。

「なんとも、焦れったい」
「……え?」
「いえ、可愛らしいな……と」
「と、十夜さん……っ」

 花火が上がる音がする。それは遥か遠く、頭の片隅で響く。でもそれだけが、卒倒してしまいそうな私を繋ぎとめていた。
 十夜さんに見つめられ、羞恥に襲われた私はすぐに浴衣から手を離した。しかし十夜さんは、そっと手を差し出してくる。

「手を、繋ぎませんか」
「――ッ」

 熱くなる頬を抑え、十夜さんを見るとにこりと微笑まれた。
 また離れるのは嫌だ。それに、もう……この手を取ってもいいはずだ。
 私はゆっくりと決心を固める。

「……はい」

 自分の手を重ねると、きゅっと掴まれた。身体の奥から、じわりと熱いものが溢れだす。

「もう、離しませんよ」

 くすぐったいような視線が、目を逸らした後も激しく鼓動をかき乱す。私は少しでも心を落ち着けようと、コクリと喉を鳴らした。

「そ……そういえば、どうして十夜さんは私の姿を見つけられたのですか」

 美里と御堂くんから離れて一人でいた時も、翠さんに引っ張られてはぐれた時も、十夜さんは人混みの中から私を見つけてくれた。

「どうしてって……凛子さんだからですよ」

 十夜さんはキョトンとした顔で、さも当たり前のことのように答える。

「わ、私だからって……理由になっていませんけど」
「充分、理由になっていると思いますけどね」

 十夜さんはおかしそうに笑った。

「それに凛子さんの浴衣は僕が仕立てたんです。見つけられないはずがない」
「え?」

 十夜さんが仕立てた?
 普通は業者に出しているはずだし、十夜さんが針を持っている姿なんて見たことがない。
 私が目を丸くして聞き返すと、十夜さんは気恥かしそうに空いた手を首裏に回した。

「特別、だと言ったでしょう」
「とくべつ、ですか?」
「凛子さんの浴衣を業者に出すのが惜しくて、僕が仕立てました」
「……そんな」

 好きな人のお店で選んだ浴衣だから、元々大事にしようと思っていたけれど、まさか十夜さんの手によって仕立てられていたなんて。浴衣がより一層大事に思え、愛おしくなってくる。

「ちなみに五年前の着物も僕が仕立てました。一針一針、ね」
「えっ……あ、あの着物を……ですか?」
「こう見えて器用なんです」
「でも大変だったんじゃ……」
「だから凛子さんは特別なんです。五年前から……ずっと」
「……嬉しいです。ありがとうございます」
「いえ、僕も凛子さんに着ていただけて、とても嬉しい」

 お互いの気持ちを確かめ合うように、繋いだ手により強く力が込められる。
 しばらく歩くと、お祭りの雑踏から離れた場所に出た。

「ここからでも花火が楽しめそうです」

 十夜さんは空を見上げる。それと同じように顔を上げると、ドンと音が響き、大輪の華が開いた。
 手は繋がれたままで、歩いている最中、私の意識はずっとそこに集中していた。
 汗ばんだ手を離したいような……でも離してしまえば、もう繋げないような気がする。
(十夜さん……)
 どうしたものかと困り、視線で十夜さんへ訴えかけると苦笑されてしまった。

「凛子さん、その表情は反則です」
「そう言われましても」
「もう少し、近づきませんか」
「え?」

 私の返事を待たず、十夜さんは手を離すと私の肩に触れた。

「あ……」
「拒否は許しません。反則した凛子さんが悪いんですよ」

 十夜さんは触れた手に力を込めて、私を引き寄せた。込められた力は穏やかで、柔らかな力。
 速くなる鼓動に戸惑いながらも、抱き寄せられたまま空を見上げる。

「……綺麗」

 抱き寄せられて見た花火は、夜空を七色に彩り儚く咲き誇っていて。
 私が見惚れていると、隣から視線を感じた。

「と、十夜さん。あの、あまり見られると……」
「恥ずかしいですか。とても綺麗なのに」

 思わぬ言葉に目を瞬かせながら頷くと、十夜さんがクスリと笑う。

「暗くてもわかる。貴女の頬が赤く、染まっていくのが……」

 息遣いさえもわかる位置で低く静かに囁かれれば、近づいた体温もどこか官能的な雰囲気を孕んでくる。鼓動の高鳴りが苦しくて、私は吐息を漏らした。
 アナウンスが一番大きな花火が上がることを告げると、一際大きな音がして、辺りが白い光に包まれた。
 照らされた十夜さんの顔は、優美で艶めかしくて……目が、逸らせない。

「凛子さん、貴女が好きです。これからも変わらない、そう誓えるほどに」

 花火の音より確かに響く声。
 どうしようもなく嬉しいのに、心はどこか静かで――。夢ではないかと何度も自分自身に問いただす。

「私も……好きです。これからも、ずっと……」

 口にすれば、それに呼応するかのように、鼓動が激しく胸を叩きだした。
 辺りを明るく照らした花火は、パラパラパラと星屑を撒き散らして夜空に溶けていく。
 私に回されていた十夜さんの腕が動き、向き合うような形になった。
 真正面から見るのはやはり恥ずかしく、顎を引いて覗き見ると、十夜さんが「また反則だ」と小声で呟いた。

「随分、時間がかかりましたね」

 でもそれは無くてはならない時間。
 五年前に想いが繋がっていては、憧れが形を変えることなく、すぐに終わっていたかもしれない。

「……少し、触れてもいいですか」
「え?」
「五年、我慢していたので」
「あっ……」

 伸ばされた手が私の顎に添えられる。

「凛子さんはどこもかしこも美しい」
「……そ、んな……」

 熱っぽい声音に、滾るような瞳。いつもの涼しげな十夜さんからは考えられない様子に、私の胸は破裂しそうなほど高鳴っている。
 親指でそっと唇を撫でられると、吐息さえも震えた。

「重ねてもいいですか」
「……えっ、と……」
「これでも百歩譲ったお願いですよ」

 私にとってはいっぱいいっぱいになるお願いだ。だけど、近づきたい気持ちも……もちろんある。

「……はい」

 コクリと頷くと、十夜さんはホッと肩の力を抜いた。

「全く、可愛い人だ」
「あっ……んん……っ」

 ふわりと重ねられた唇は優しく、温かく。しかし、五年の歳月を埋めるように長く――。
 打ち上がる花火が、重なる私達を何度も鮮やかに照らし、草むらからは秋の訪れを教えるかのようにコオロギが鳴いていた。
 その音色を聞きながらも、意識はしだいに十夜さんに奪われていく。

「と、とう……んっ……」

 唇が離れたかと思うと、上唇、下唇と順に啄ばまれる。重ねるだけの口付けが二、三度と繰り返され、くすぐったくて焦れったい気持ちでいっぱいになった。
 私は掴んでいた十夜さんの二の腕に力を込めた。すると、十夜さんはそれに応えるかのように、舌を口腔へと割り入れてきた。

「ん……っ」

 肩に添えられていた十夜さんの手が、私を支えるように腰へ回され、私も十夜さんの背中へと腕を回すと、これ以上ないほど距離が縮まった。
 浴衣を通して伝わる十夜さんの体温は気温よりも熱く、時折洩れる吐息も艶を孕んで私を惑わす。

「は……、んん……」

 十夜さんが角度を変えて口付けると、無意識に甘い声が漏れた。舌を絡め取られ、ジュッと吸いあげられると、背筋に痺れが走る。
 お互いの唾液が混ざり合い、絡み合ったそこだけは一つになれた気がした。

「もどかしい」
「……え?」
「浴衣が、邪魔だ」

 私に、というよりは独り言のように呟き、甘美にため息を吐く。
 私から身体を離すと、私の手を愛しむようにそっと握った。

「いいですか?」
「え……」
「凛子さんを抱きたい」

 十夜さんの瞳に炎が宿る。それは私の身体の奥に火を灯し、じわりとした疼きに変える。
 十夜さんと身体を重ねる。思ってもみなかった展開に、私は少しだけ怯えた。
(でも、私ももう……十夜さんしか考えられない)
 初めての経験となる。それなら、十夜さんに全て預けたい。
 私は瞳を閉じるようにあえかに頷いた。

「凛子さん……」

 十夜さんは私の頬を撫ぜると、額にキスを落とした。

「場所を移動しましょう。なんともこの移動時間ももどかしいですが、外では危険だ」

 唇は額から耳元へ。低く囁かれて、舌で舐め上げられれば「ぁっ……」と、自然と声が漏れた。

「その声もこの顔も。凛子さんを独り占めしたい。そしてもっと……乱してしまいたい」

 夜空に上がる花火が、十夜さんの苦しげな笑みを映し出す。
 五年の我慢はもう、既に限界を越えているようだった。
 十夜さんの足は私を気遣いながらも、真っ直ぐお祭りの出口へと向かう。繋がれている手は、先ほどよりも熱さが増したようだ。

「私の家へ行きましょう。古い一軒家ですが」

 チラリと向けられた流し目に、私の身体は火照りを増すばかりだった。

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