【完】『海の擾乱』

10 三別抄の叛乱

行藤に国書を持ち込まれた久我家では、当主の通基が情けない表情で困り果てていた。

国書について、ではない。

行藤その人が目の前にいることが、である。

義理の弟とはいえ、久我通基は婚儀に出なかったこともあり、懇意というほどの付き合いはない。

それだけに。

(何の作為で持ち込んだか)

と、勘繰りにも似た疑念を持たざるを得ない。

が。

「六波羅の探題どのの仰せにございますゆえ…」

としか、行藤はいわない。

うかつにいい返そうものなら、いかに二階堂家が公家に近いとはいえ、何が飛んでくるかわからないのが武家である。

仕方なく久我通基は家人を御所へ差し向けることになったのである。

御所では過日、亀山天皇の叡慮により、返書を出さないと方針を決めたばかりである。

公家衆のあいだでは幕府の深意をはかりかねる風評が飛び交い、とりわけ、

──北条は朝廷を悩ませて何を喜ぶつもりか。

と、鎌倉に屋敷を持ち、日ごろ幕府と往き来のある親幕派の冷泉為相(為家卿の子)ですら、懐疑を呈したほどであった。

ちなみに国書は文永六年の九月にも再び来たのだが、このときも交渉らしい交渉はなく、外交は不調に終わってしまっている。

こうしたなか…。

金沢実時からの、例の北条時輔に関する報告の件だけは、毎月出す月次書(つきなみがき)と呼ばれる一種の報告書の形で提出している。

月次書は執権、連署、評定衆が目を通す。

実時も評定衆にいるため、自然と報告はゆく…という仕組みである。

これにより、時輔の動向もわかるようになったのだが、出入りする者がほとんどなく、非番でも引きこもるだけだというのである。

「鎌倉の供奉人であられた頃とは違い、屋敷にこもられてばかりである」

というのはどうやら、事実であるらしかった。

鎌倉で将軍御所の供奉人をつとめていた当時などは、時頼の子というだけで数多の御家人が出入りする屋敷として、市中でも有名であった。

が。

六波羅南方では一転、ほとんど往来がないのである。

──まるで化け物屋敷の主やな。

と当初は、二十年も空き家であったところから、口性ない京の衆の格好の餌食であったが、

「弟が兄を鎌倉から追いやるなぞ、北条のお歴々には血も涙もありまへんな」

と、事情を知る者からは、少なからず同情の声も聞かれた。

いっぽう。

当の北条時輔はというと、日々を静かに暮らすことを目的としているような風で、

「変に田舎者が肩肘張ったところで、恥をかくだけのことであろう」

と、なるだけ世間からも、朝廷からも、幕府からも間を取る姿勢であった。

ときに六波羅北方の極楽寺時茂と対面するチャンスもあるのだが、

「まるで世捨て人のような暮らしぶりである」

といい、あれでは飾りにしかならぬ、と時茂はぼやいた。

が。

行藤の見立ては違う。

六波羅から歩いてほどない地にある清水寺の舞台で、端座して瞑想にふける姿を、ときに行藤は見かけることがある。

「なにゆえそのような?」

藤子は不思議がった。

「おそらくいつも弟と比べられていたゆえ」

ときには、何者にも比べられることのない場に、身を置きたいのであろう…と、行藤はいった。

涼やかで穏やかな顔つきから、世をはばかる隠遁者としての生活を楽しんでいるようにも、行藤には思われた。

突然だが名越時章の部下に、菊池武房という御家人がある。

もとは阿蘇の一帯を治める肥後の国人で、番役として何度か京や鎌倉に赴いた履歴を持っており、とかく肥後は菊池、という武名も高い。

この菊池家に、

「異国警固番役」

という、それまで聞いたことのない新しい役職の噂が聞こえてきたのは、文永七年が明けて間もなくである。

(何とも厄介な話になったものよ)

と武房は、みずからの住む九州という地が異国の標的にされている実感を初めておぼえた。

それまで博多や太宰府から伝わってくる、蒙古の高麗攻めの噂はあったものの、筑後川から南は関わりが薄い…と武房は、独自に値踏んでいたのである。

が。

(この菊池に話が来るということは)

少なくとも肥後じゅうに話が回っている可能性がある、ということになる。

ともかくも、

「まずは太宰府の武藤どのに伺いを立てるのが道理であろう」

という結論となり、まずは筑前まで使者を差し立てる仕儀となった。

ちなみに武藤どの、とは、太宰少弐の武藤資能のことである。

いっぽう。

鎌倉の名越家では、守護を任地に赴任させる政策により、代人差立という制度を使い嫡男の篤時(行藤の甥)を肥後まで赴かせることとなった。

「本来ならばわしがゆくのだが」

幕府中枢部の引付頭人でもある時章は鎌倉を空けられない。

「わたくしがついて参ります」

とすでに身重であった熙子が、幼い篤時と肥後へゆく段取りとなり、春先には鎌倉を発っている。

熙子が道中、京に上ってきたのは鎌倉を出て十日目にあたる。

行藤は知らせを聞くと迎えをやり、

「藤子に引き合わせたい者が参った」

どなたでございますか、と藤子がたずねると、

「そなたの義理の妹よ」

と行藤はいい、熙子と藤子を対面させたのである。

藤子は熙子が思いの外の美貌の持ち主であることに、まず驚いた。

(鎌倉の七小町の一人とは聞いていたが)

噂以上だと藤子は感じている。

熙子は逆に、藤子が公卿の娘によくある、取り澄ましたところが皆無であるということに驚いた。

(もう少し居丈高かと思うたが)

聞けば馬を乗りこなす、という。

「これから探題どのに会うてまいるゆえ」

と行藤が座を外すと、互いに名越時章と行藤の話になった。

「どちらの殿御も」

やれ立身したいだの、儲けたいだの、表立ってほとんどいわない性質で、

「そこが困る」

家を保つには地位や金が要ることを考えてもらいたい──と歳の近い熙子と藤子は、愚痴をこぼした。

「…互いに、似た者同士にございますね」

さながら、現代のガールズトークにも近い感覚なのであろう。

藤子は熙子がみずからの容貌を鼻にかける風もなく、顔だけであれやこれやいわれるのは、むしろ迷惑だといわんばかりの面があるのに驚きを持ちつつも、好感触を得た。

かたや。

熙子も藤子が、例の行藤の寝床に書物を持ち込んでは片手で懐に手を差し入れてくる話をし、

「あのように片手間で子を作ろうとされると困る」

と、およそ大臣の娘とは思えぬ、アケスケな話をする藤子を、

「人に垣根を作らぬお方のようであられます」

と他日、安達泰盛に述懐している。

さて。

行藤が戻ってきたときにはすっかり藤子と熙子は打ち解けてしまっており、

「熙子どのはみずから望んで肥後まで行かれるのだとか」

と、行藤の知らない話まで藤子は知っている。

(やはり境遇が似ると心安くなるものらしいな)

行藤はひとまず不仲にならずに済んだことに安堵した。

そのようにして。

熙子は京を離れたのだが、さすがに気がかりであったのか、行藤は北条時輔のはからいで、在番から三百騎ほどを借り受け、警護に差し遣わしている。

そうして熙子は、篤時ともども肥後に入ると、出迎えた菊池武房の案内で阿蘇神社の境内にある客殿に、しばらく滞在することとなった。

(名越どのは教時どのを危ないと見ておられるものとみえる)

何も若い篤時でなくても、分別ざかりの教時でもよいはずであろう。

(鎌倉に教時どのを置かねば何が起こるか分からぬ、ということか)

菊池武房は胸中に、ざわざわとしたものを感じたのであった。

文永七年正月、かねてより朝廷では二度目の国書ののち、返書を出す場合に備え高辻長成という学者に、草案をしたためさせた。

内容は、

「皇土、永らく神国と号す。智を以て争うべきに非ず、力を以て争うべきに非ず」

というもので、これは関東申次の西園寺実氏から六波羅の北条時輔を通じ、鎌倉の松下禅尼のもとへと諮問されている。

敢えて松下禅尼を送り主としてチョイスしたのには、北条時輔らしい計算の跡が見える。

松下禅尼。

時輔と執権北条時宗の祖母にあたり、侍所別当の安達泰盛のおばでもある。

(しかも)

公卿の飛鳥井家の縁者でもある。

その松下禅尼を通せば、さすがに鎌倉でも粗略には扱えず、

(しかも御内人の握り潰しに遭うことも、恐らくないであろう)

という、時輔らしい思慮によるものであった。

が。

この草案を最終的に握り潰したのは、当の御内人の平頼綱であった。

頼綱には得宗家の寄合衆という合議制の私政の機関があり、ときには秘密警察の面もある。

こともあろうに。

そうした手下を使い、鎌倉の手前の腰越で時輔からの使者を、粛清してしまったのである。

で。

この話が露見したのは、三月に番役で上洛した行藤の親族の安保一族の御家人の、鎌倉でのよもやま話からであった。

思わず行藤はため息をもらし、

「…これでは戦になる」

とこぼした。

(頼綱は執権どのしか見ておらぬ)

頼綱のように視野が狭いと思いもよらぬことを、人はしでかす。

行藤は仔細を極楽寺時茂に具申したのだが、

「時輔どのはそのような大それたことをしたのか」

と、時茂はすっかり苦い顔になってしまった。

「かような大事な話ならば、鎌倉へ送る前にこの時茂に伺いぐらいは立てるものではないのか」

「事態が事態にございますゆえ、鎌倉に伺いを立てることを選ばれたのでございましょう」

「それでは六波羅は南北二つはいらぬ、という理窟になるではないか」

もともと京の出来事は南北両探題で会議をすることが前提のはずである。

「どうりで時輔どのと反りが合わぬと思うたら、こういうことか」

時茂はすっかり失望した、という感情を、表にあらわしている。

「かようなときに、不和はなりませぬ」

それでは異国に付け入られます、と行藤は、諫言気味にいった。

「行藤どの、そなたならばどういたす」

答えに行藤は窮した。

「それがしは探題でも執権でもございませぬゆえ決めかねます」

「さような無責任なことを申すでない!」

ヒステリックに時茂は声を裏返した。

「それがしは二階堂の者にございます。北条のいさかいは北条が決するのが筋でございましょう」

時茂は、行藤のあまりにも正論すぎる返答に、ぐうの音も出なかった。

くだんの騒擾から三月ほど経った六月、六波羅へ太宰府の武藤資能から、早馬で書状が到着したのだが、

「行藤、これを見よ」

とワナワナ震えながら極楽寺時茂が渡したその中身というのが、行藤には驚きであった。

「…高麗の禁中の軍およそ千艘、高麗王の舎弟を擁し開城を出でて珍島に拠り、蒙古に抗す云々…」

という文面で朝鮮半島の全州から合浦、巨済島を経て博多に逃げてきた者たちから聴取したとされる内容が記されてあった。

「見よ行藤、このままではどうなるのだ?」

「…亡びましょうな」

亡ぶ、という言葉がよほど衝撃的であったのか、

「では和睦か?」

「それは執権どのしか決められませぬ」

行藤が文面を読み進むと、

「高麗王、蒙古に与しこれを討たんとしともに攻めんとす云々」

ともある。

(つまり高麗は二つに割れた、ということか)

行藤は苦笑いした。

呼称を、

「三別抄」

といい、高麗の都の警備隊であった左右夜別抄と、さきの戦いで捕虜となりその後に脱出してきた神義軍をまとめた呼び方である。

編成の経緯が経緯だけに士気は高く、半島の全羅道を押さえて穀倉地帯を手に入れた。

そこに賛同した農民が支持して蜂起したので、結果として高麗の王室は財政の基盤を脅かされることになったのであった。



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