【完】『海の擾乱』

4 奇異の強者(つわもの)

七月。

二階堂家では嫡男の次郎の元服が行われた。

烏帽子親は行藤が自らつとめ、

「定藤」

とした。

「定は、藤原定家公が由来である」

あえて二階堂家の代々の偏諱でもある「行」の字を、行藤はつけなかった。

「われら二階堂家の氏が藤原であることを、忘れてはならぬ」

同時に行藤は藤子の「藤」であることも慮っていたのである。

「なにゆえかようなときに元服なぞ…」

当の藤子にはわけが分からない。

「これで鎌倉へ行く口実ができた」

行藤はいった。

この元服の報告で鎌倉にはどのみち行かなければならない。

藤子はハッとした。

「公事で動けば角が立つ。元服の言上で鎌倉へ下れば角は立つまい」

このあたり、武士にしては頭のよすぎる行藤らしい細かな思慮ではある。

数日後。

探題の赤橋義宗の許しを得、行藤は竹崎季長を連れ、定藤と郎従を率いて、京を出立した。

行藤の配慮は、みすぼらしかった季長の直垂や烏帽子などを、衣装持ちの行藤が手ずから選んで季長に譲り渡して着せたところにまで及んでいる。

といっても…。

さすがに派手な片身違いを着せるわけにゆかず、紺や茶色など一般的な柄や色を選んでいる。

それでも。

貧乏ずくめであった季長にすれば、新品に袖を通せるだけでも法外な喜びである。

(まだまだ世の中は捨てたものではない)

季長は道中、しみじみ実感したのであった。

三嶋大社に着いた頃、かねてより手配をしていた肥前の白石通泰から書状が届き、それを待って箱根権現で装束を改めた。

一行が鎌倉に到着したのは八月十二日である。

季長と行藤は今大路と長谷小路の交わる辻で別れ、行藤はその足で幕府のあった若宮御所へ入った。




竹崎季長が対面を求めたのは、千葉頼胤であった。

(千葉上総介どのであれば)

面識がある。

それに今は、博多での傷がもとで病の床にあり、見舞いに顔を出そうと良心から思ったまでのことである。

千葉屋敷まで来た。

「拙者は肥後の竹崎季長、千葉どのの見舞いに参った」

が。

取次は、帰られよと冷淡にいうのである。

「千葉どのが知らぬはずはない、さきの文永の蒙古の合戦のみぎり、博多の浜で名乗りを交わしておる」

それでも千葉家の家人の返答は知らぬ存ぜぬの一点張りで、

「わが主、頼胤は重篤ゆえ後日お越しあれ」

とつれない。

「…病と聞いたゆえ、見舞いに来たのだ!」

無理くりに季長は門をくぐろうとした。

すると。

千葉家の家人たちは季長を羽交い締めにし、

「これ以上の無礼はお控え召されよ!」

と、路上へ突き出してしまった。

(何と鎌倉武士はつれないものか)

季長にすれば耐え難い恥辱でもあった。

すでに夕刻である。

まだ宿を決めていなかった季長は、道を方々訊き訊き二階堂大路にある、行藤の屋敷を訪ねた。

行藤は若宮の幕府の政庁へ嫡男の定藤をともなって、

「元服の披露目にございます」

と執権時宗の御前に伺候し、御披露目を済ませて屋敷へ帰邸を果たしている。

そこへ季長は来た。

行藤は季長から事情を聞くや穏やかに、

「胤宗どのをこれへ」

といい、千葉頼胤の次男の千葉胤宗を、使いをやり呼びに向かわせたのである。

慌てた千葉胤宗が馬を飛ばして馳せつけると、

「二階堂どのの知り人とは知らず、大変なご無礼を…申し訳次第もございませぬ」

千葉胤宗は平蜘蛛のように土下座して、声を上ずらせながら謝罪した。

「まずはお手を上げられませ」

行藤は、

「…して、上総介頼胤どののご容体は?」

「薬師(くすし)はここ数日がヤマと申しております」

行藤は向き直った。

「…竹崎どの、会うたところで、これではどうにもならぬようだな」

季長は途端に力の抜けた諦めに近い顔をした。

ついでながらこの四日後の八月十六日、千葉頼胤は三十七歳で世を去っている。



九月になった。

行藤は季長を連れ、屋敷を出た。

「貴殿の手柄を認めさせるなら、これから引き合わせるお方に、ありていに申し上げたほうがよい」

向かったのは甘縄である。

着いたのは松下禅尼の庵であった。

「禅尼さま、二階堂判官でございます! 禅尼さまはおわしまするか」

行藤は大音声を張り上げて呼ばわった。

しばらくするとするする、と奥から、松下禅尼は出てきた。

「行藤どの、ずいぶんひさかたぶりじゃのう」

「ご無沙汰いたしております」

「それにしてもそなたは、声が大きいのう」

「時村どののごとく居留守を使われてはたまりませぬゆえ」

行藤は高々と笑い飛ばした。

ときおり行藤はきつい冗談を浴びせることがある。

で。

ここで行藤は、季長をして合戦でのいきさつを洗いざらい松下禅尼に包み隠さず言上させている。

「日頃より禅尼さまは、常にまつりごとは正しくあらねばならぬと最明寺どの(時頼)や執権どの(時宗)にご薫陶あそばされたと聞いております」

なれば、と行藤はいう。

「かかるまつりごとの過ちは、早く正すに越したことはあるまいかと存じまするが」

いかがでございましょう、と行藤はいった。

松下禅尼はしばらく考え込んでいたが、

「…二階堂どの、そなたはくれぐれも謀叛人に仕立てられぬよう、気をつけられよ」

「痛み入りまする」

行藤は頭を下げた。

「竹崎どののこと、しかと泰盛と時宗にこの禅尼が、伝え置きましょう」

松下禅尼が座を立つと一同は平伏した。

帰路。

行藤から松下禅尼が安達泰盛のおばで北条時宗の祖母である事実を聞かされた季長は、

「かようなお方がおわすとは」

季長は嘆息し、

「この季長、このご恩は終生忘れませぬ」

深々とお辞儀をしたが、

「その礼は手柄が認められてからで、よろしゅうございましょう」

静かに行藤は笑った。



このあと一番手柄の扱いは松下禅尼の甥でもある安達泰盛から異論が出た。

「少弐どのが一番手柄とされなかった以上、それには無理があろう」

というのである。

行藤はいう。

「しからば今後、先駆けはみな抜け駆けである、と幕府は見なすのでございまするな?」

「そうではないが…」

安達泰盛は追い詰められた。

「いくらなんでも抜け駆け呼ばわりでは筋道が通りますまい」

行藤の厳しい一言についに安達泰盛は、言葉に詰まった。

「一番手柄が認められなくなるとなれば、ついには誰も先陣を切る者がいなくなりまするが、それで幕府はよいのでございまするな?」

あまりにもすきのない行藤の理詰めの問い詰めぶりに安達泰盛も閉口し、

「もう、よい」

渋々ながら一番手柄を認めさせたのであった。

いわゆるトップサーキットという手段を行藤は使ったのであるが、

「いったい行藤どのは、幕府を骨抜きになさるおつもりか」

と連署の塩田義政に呼び出された席で、叱責を行藤は受けた。

が。

行藤はただ一言、

「連署どの、武士の意気地とは、かように細かきものでございまする」

というのみであった。

もしかすると行藤は幕府の泣き所を見抜いていたかも分からないが、今となっては知るすべもない。

ともあれ。

竹崎季長の一番手柄は認められ、肥後海東の地頭職が恩賞として与えられた。

安達泰盛からは馬が引き出物として渡され、行藤は地頭職の就任の祝いに緋縅の鎧を贈った。

「今度は借金のカタとなさらぬよう気をつけられよ」

季長に他に直垂や小袖など渡し、そう言い添えた。

行藤たちの一行が京へ戻ったのは師走に入ってからであった。



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