【完】『海の擾乱』

3 楠木の入道殿


弘安六年。

春、鎌倉の問注所へ、まことに風変わりな男があらわれた。

「訴えたき儀がございまする」

というのである。

が、直垂姿に太刀を佩き、武家の姿ながら、しかし髪は烏帽子も着けず髪は坊主頭なのである。

「どういう者だ」

問注所では風体を訝って、訴状を受けなかった。

あまりに怪しい。

そこで。

問注所ではこの厄介な男を引付衆になって一年も経たない行藤のもとへ、

「引付衆の二階堂判官どのまで回られよ」

といい、まるで押し付けるかのように永福寺下へ寄越してきたのである。

あとから聞いて行藤は半ば呆れ返ってしまったのだが、

「まずは素性を見極めねばなるまい」

ということとなり、

「直々に詮議いたす」

と、詮議の座へ罷り出たのであった。

「それがしが二階堂判官である」

というや、

「ではあなた様が、六波羅でも名高かった二階堂判官どので?」

といい出した。

「知っておるのか」

「それがしは河内の国人、楠木五郎入道正遠と申しまする」

楠木正遠。

のちに鎌倉幕府を滅亡へと追い込んだ楠木正成の父にあたるが、それははるかな後代になる。

ともあれこの入道は、

「よく奈良の寺へ出入りいたしまするゆえ、髷があるより」

このほうが重宝する、とぬけぬけというのである。

「して楠木どの、訴状があると申されたが」

じつは、といい、

「それがしは河内で辰砂(硫化水銀。赤色顔料の原料の一つ)の商いも手掛けておりまするが、いまだ鎌倉のお武家さまの中に、代金の未払いがございまして」

取り引き上のトラブルであるらしい。

「しかしながらそれは、問注所か政所の扱いではないのか?」

引付衆が扱うのは東国武家の所領の訴訟で、西国の金銭に関する訴訟は六波羅の範疇のはずである。

それをいうと、

「六波羅では鎌倉へ回れ、問注所では引付衆へ回れといわれました」

いわゆるたらい回しに遭っているようである。

「しかも公事には金がいると仰せになられ、六波羅でも問注所でも賄賂を払うよう求められました」

何とも奇態な話である。

「いや、公事は金はかからぬ。して取り引きの相手は?」

「鎌倉の安達城ノ介泰盛さまのご家中の方にございまする」

面倒な名前が出た、と行藤は直感した。

「これまで幾度か六波羅へ訴えましたが、先のような有り様にて一向に埒が開きませぬゆえ」

鎌倉まで出た、ということらしかった。

「訴えの向きは承った。これより調べて確かめねばならぬこともあるゆえ、今しばらく楠木どのは、宿所にて待たれよ」

とこの日は帰した。



さっそく行藤は安達家へ書状を家来に持たせ、ことのあらましを確かめようとしたのだが、

「楠木五郎入道などという者は知らぬ」

というばかりで、何の返事もないのである。

(よもや)

代金を踏み倒すつもりではあるまいな…と一瞬、頭によぎった。

これが。

はたから藤子が見ると、

「何やらとんでもない問題を抱えたのでは」

と彼女の目に映ってしまうのである。

が。

当の行藤はどこか客観的に楽しんでいるようなふしがあって、

「ことが起きてあのこのと立ち騒ぐは、雑兵の所業であろう」

といい、この話をあろうことか、平頼綱に持ち込んだのである。

「頼綱どのは安達どのがお嫌いゆえ」

この手の話は何かと使えるのではあるまいか、としたたかにいい放ち、

「そこまで露骨にいわずとも」

という頼綱に構わず、

「なぁに、まことのことではないか。今さら何を隠すことやある」

この敢えて空気を読まないあたりが、行藤たる所以であろう。

頼綱は嫌な顔をしたが、

「全く判官どのにはかないませぬ」

といい、数日のうちに安達家の者の名前まで割り出し、行藤に伝えてきた。

そうして。

安達家の家来による未払いの件はすぐ裁決が出て無事に片付いたのであるが、

「判官どのも一刻者よのう」

と安達泰盛から、脅しとも皮肉ともつかないいわれようであった。

「しかしながら安達どの、もし楠木五郎入道どのが鎌倉の裁きは正しからず、とでもあちこち触れ回られたらば」

誰がその責めを負われるのでございましょうや、とやり返すと、

「…では勝手にされよ」

と脇息を蹴飛ばして立ち去った。

頼綱は逆に、

「いやはや判官どの、何とも命知らずでございまするなぁ」

と、普段いわない心配を口にした。

当の楠木正遠は無事に代金をもらい受けたあと、一様に礼を述べたが、

「それがしのように代金の踏み倒しに遭う者は、他にもおりまする」

しかも北条一門にもいる、といい、

「これがこのままでは鎌倉は信を失い、危うくなりまする」

という言葉を残し、領国の河内へと戻ったのであった。



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