【完】『海の擾乱』
最終部 擾乱の巻

1 正応事件

正応三年一月十八日に六波羅探題北方の北条兼時が離任した直後、三月に入ると、宮中ではちょっとした奇怪な出来事があった。

四日と五日、相次いで禁裏の石の別々の狛犬が突如、割れたのである。

事態を重く見た伏見天皇は陰陽師を呼び御占を命じ、すぐ結果が出た。

それは、

──血、流るるあり。

という何とも物騒なものである。

この件は関東申次の西園寺実兼から六波羅探題南方の佐介盛房に注進された。

盛房は御所の警固を固めるべく篝屋の人数を増やすよう命じ、不穏な空気は去った、と感じられた。

三月九日。

この日は春にしては暑い日でもあったため、まだ三歳であった東宮の不例を避くべく、二条富小路の御所は夏場のように蔀戸を上げ、御簾を巻き上げて風通しをよくしてあった。

夜。

御所の宜秋門の閂が珍しく裂けた。

代わりの材を探しに雑色が動いている最中、混乱を衝くかのように、緋縅の鎧をつけた侍が三人ほど騎馬で門をくぐり、紫宸殿へ上がり込んだ。

馬を白洲に乗り捨てると三人のうち赤鬼のごとき風体の武者が、

「御主上(ごしゅじょう。天皇のこと)はいずくにおわさんや」

と女官を捕まえ質した。

女官は「艮の寝所におわしまする」とのみいうと、武者は縁の廊下をズカズカ奥へ進んだ。

女官は慌てて別の間に休んでいた新内侍を呼び、按察殿という女官とともに、巽の寝所で休まれていた伏見天皇と東宮を女装させ常盤井の行在所へ逃した。

いっぽう。

嘘の居場所を教えられたことに気づいて玉座の前に戻った武者たちは、すでに伏見天皇が去ったことに感づいたらしく、

──今やこれまでである。

といい、一人は御帳台で鎧をくつろげ腹を切った。

緋縅の鎧の武者は寝所までたどり着いたが、すでに床に伏見天皇の姿はなく、鎧を脱ぐと腹を切り、腸をつかみ出した姿で果てた。

早馬で知らされた佐介盛房が馳せつけると、御所は土足の草鞋の足跡と、血まみれになった御帳台で陰惨な状態となっており、

「誰も近づけてはならぬ」

と命じ、一部始終を認めた書状を祐筆に書かせると鎌倉へ早馬を差し立てた。



翌朝。

下手人は浅原為頼と子の為継、光頼と判明し、その遺体は腸をつかみ出した姿のまま六波羅へ運ばれた。

浅原為頼。

さきの霜月騒動で所領を奪われて以来、悪党として名をはせ全国に指名手配されていた凶悪犯である。

宮中では戦慄した。

小御所の廟議は取り止めとなり、御所は門が閉じられたのである。

昼過ぎ。

御所は血の臭いが充満しており、一度戻った伏見天皇も吐き気をもよおされ、常盤井の行在所へと再び還御された。

御所に暗殺者が闖入するのは崇峻天皇の頃以来の一大事である。

さらに。

六波羅の一存で判断を決めかねる問題が飛び出した。

浅原為頼の佩いていた太刀が、亀山法皇に近い三条実盛の「鯰尾(なまずお)」という銘刀であったことが判明したのである。

「これはもしや」

裏で亀山法皇が糸を引いているのではないか、という疑惑が浮上したのである。

左介盛房は、六波羅在番の二階堂貞藤を呼んだ。

行藤の子である。

「貞藤、そなたどう見る」

「一度法皇さまに使いを立て、正邪をはっきりさせねばなりませぬ」

潔白ならばそれでよし、連座なら承久の乱のときと同様、流罪にすれば法は立ちまする──と淀みなく貞藤は答えた。

「さすがは判官どのの子、答が明快よな」

貞藤は博者として都でも今や知らぬ者がなく、盛房は幕府をゆくゆく背負って立つ者として高く買っている。

その盛房は貞藤の見解を添えて、文を持たせ鎌倉へ使者を下した。



その鎌倉では。

平頼綱と大仏宣時の意見が割れていた。

大仏宣時は、

「真偽を確かめねば裁決は下せぬ」

として、使者の派遣を主張した。

頼綱は反対に、

「承久の例に倣い、亀山法皇を流罪と致し奉るべきである」

といい、法皇流刑を述べて譲らない。

そこで執権北条貞時は幕府で四番目の立場にある、行藤を上洛させて訊問することで落ち着いた。

が。

当時の行藤はそれどころではない。

二階堂信濃守一門の相続争いで、行藤はどちらつかずとされて孤立し、いわゆるバッシングを受けていたのである。

そんなときに。

頼綱は出来れば「上洛してもらいたい」という。

(何と無茶な)

行藤にはそうとしか思えなかった。

だが。

重臣で亀山法皇を知るのは行藤しかいない。

「頼む」

滅多に頼み事をしない頼綱が、珍しく頭を下げた。

(こうまでされては)

行藤にすれば行かざるを得ないであろう。

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