【完】『海の擾乱』

4 波乱の婚礼

年があらたまった文永二年、行藤と藤子の婚儀の日取りは三月と決まった。

藤子はそれまでの預けられてた寺から、今出川の冷泉家の別邸に移り、行藤の二階堂家もにわかに鎌倉との人や物の往来が増えた。

だが。

婚儀そのものを行藤自身は疑問に感じていたらしく、

「何とも面倒よの」

と、ひそかにこぼすこともあった。

このころになると行藤も、藤子との嫁取り話が鎌倉と朝廷のいわばパワーゲームになりつつあることに気が付いていたのである。

(まだわれは良いとしても、藤子どのが不憫よ)

まだ互いの素性を知る前の男装であった頃に聞いた、

「私は親を親と思うたこともなければ、我が身を大事と思うたこともない」

という一言が、脳裡に引っ掛かったままである。

しかし。

現代のように簡単に訊けるものでもなく、三月のその日だけは近づくのであった。

あちこちで梅がほころび始めた。

鎌倉からは母の生家の縁者にあたる大江時廣が参列すべく上洛し、幕府からは北条時頼の弟にあたる北条時定、また名越家から時章の弟の名越時長…と名だたる御家人が名代として派遣されている。

外様の御家人とはいえ、仮にも二階堂家は連署を出す一族であり、幕府の面目がかかっていたのである。

いっぽう。

藤子側の参列は少ない。

久我家を代表し同族の北畠雅家、中院通成の二人だけである。

のちにこの話を聞いた極楽寺家の義政(時茂の弟)などは思わず、

「まことにそれだけか」

と驚嘆を隠さなかったほどで、さすがにこれには為家卿も戸惑いを隠さず、

──かようなありさまでは御上の御稜威(みいつ)にもかかわる。

といい、行藤と昵懇の一条家経に出席の打診が来たほど、公卿社会では武家に嫁ぐ事実をさげすまされていたのである。

さらに在京の武家から六波羅の北条時輔が出ることとなり、鎌倉の幕府の権力を示す盛大な婚礼になることは、容易に察せられた。

当日がきた。

行藤は判官の正装でもある縹色の束帯に巻纓の冠、腰には累代の太刀を佩いて、箙をつけた姿で着座した。

かたや。

今出川から輿で着いた藤子は、久我家の竜胆車の紋が入った五つ衣と呼ばれる十二単衣に唐衣と裳をつけた、豪華な装束である。

屋敷には二階堂家の三つ盛り亀甲の幔幕が立て回され、いよいよ儀式という段取りとなった。

通常、婚儀で当人どうしは口を開かぬのが慣例である。

が。

行藤の口が動いた。

「わしはまだ得心のゆかぬところがある」

このいきなりの発言に満座はどよめきはじめた。

「われには藤子どのに尋ねたき儀がある」

と言い出したのである。

「藤子どのに尋ね申す」

わが二階堂家は見ての通り武家である、といい、

「わざわざ鎌倉から執権どののご名代が馳せのぼせらるほどではあるが、久我家の方々からは余り客人がおわさぬ」

つまり公卿衆は内心この縁組みを心底から喜んではおらぬということである、と行藤はいい、

「しかもそれがしごときの婚礼にわざわざ執権どののご名代がご上洛なされた。これはとりもなおさず幕府のいわゆる力自慢のごとき思し召しのあらわれである」

そのような朝廷と幕府の綱引きじみたこの縁組みについて、

「藤子どのに存念を尋ねたい」

と、行藤はいった。

そのあまりに身も蓋もない内容に、日頃は親しい一条家経ですら、

「行藤、そこまでいわぬがよいのでは」

といったが、

「思うまま申されよ。あえての咎め立てはせぬ」

と行藤はいつもの涼しい顔である。

しばらく藤子は黙ったままであったが、やがて口を開いた。

「ならば思うまま申し上げまする」

判官どのはかつて、武士はつまらぬと仰せられました、といい、

「それでも生まれ持ったものは、慈しまねばならぬとも仰せになられました」

ならば──と藤子はいう。

「こうして夫婦になることも、持って生まれた縁でございましょうゆえ、慈しまねばなりませぬ」

幕府がどうの朝廷がどうのというのは、関わりなき別の話かと存じまする、と藤子は結んだ。

しばし行藤は瞑目していたが、

「得心いたした。よって、藤子どのを行藤が嫁にもらいうけ申す」

とだけいい、すかさず出された盃に口をつけた。

そこを間髪いれず北条時定が、

「いやいや、近年に見ない奇抜な趣向は何とも愉快よのう」

みなで飲もうぞ、と馴れぬ大声を張り上げるのであった。



藤子はこの、行藤という自らの夫ほど不思議な人物もない…と思うことがはじめからあった。

まず、弓矢が恐ろしく下手なのである。

この時代の武士にはあるまじき問題だが、当の行藤はというと、

「大将は組み討ちで首さえ取られなければ良い。弓矢はよけられれば死なぬゆえ、上手く射るのは二の次で良い」

というのである。

行藤いわく、

「一家のあるじは戦場では生き抜かねばならぬ」

大将が討たれたら戦は敗けで、家来は路頭に迷う。

「それゆえ、多少は臆病であっても、生き抜かねばならぬ」

というのが言い分らしい。

いちおう馬も騎れるが、手綱捌きは取り立てて上手でもない。

むしろ藤子のほうが騎馬はうまい。

和歌は、詠み手で知られる父の血を引き素質は良いのだが、これまたあまり詠まない。

これにはさすがの為家卿も手を焼いており、

「せっかくの才が泣いてしまう」

とこぼしたほどである。

これも、

「和歌で天下が変わるわけではない」

と行藤はいい、

「和歌で一合でも米の収れ高が良くなるわけでもなかろう。なるほど、詠めるに超したことはないが、せいぜい歌会で恥をかかぬほどで良い」

と、何ともそっけない。

ところが。

行藤ほど本を読み漁る武士を、藤子は見たことがなかった。

論語や唐詩はいうに及ばず、中には易経だの荘子だの、また律令や田んぼの測り方だの書いた本、陰陽道の本や史記やら孫子の兵法書やら見たことのない書物が行藤の居間にはあって、

「これからの武士は、頭に様々な叡智を入れておかねばならぬ」

といい、ときには厠や寝床まで本を持ち込み、臥床に至っては片手で藤子を愛撫しながら、読みふけるのである。

される藤子はたまったものではない。

藤子がかつて預けられてた寺にも書物はあったが、

(ここまでして本を読む人は聞いたことがない)

と行藤に愛撫されながらも、内心は半ば閉口するほどであった。

そういうデリカシーというか深慮のなさもある行藤だが、意外と細やかな面もあって、

「一緒に月見がしたい」

と藤子がいうと、六波羅の大番役を早引けし、酒肴を揃えわざわざ藤子のために暇を割く…ということもあった。

ところで。

かねがね藤子には、行藤に尋ねたい一つの問いがあった。

(婚礼の日になぜあのような無粋な質問を投げ掛けてきたのか)

ということである。

あの日、行藤が一堂の前で指摘したのは、

──われわれの縁組みは鎌倉と京の力の較べ合いではない。

という一種のアンチテーゼともいうべき、幕府や朝廷には利用されまいぞという屈強な意思のあらわれでもある。

おそらく藤子が悪用されるのを嫌ったのではといったあたりまでは、わざわざ藤子との月見のために早引けする行藤の性分を見ていて、藤子も気づいている。

が。

どうも藤子は行藤にある種の苦手意識めいたものがあるらしく、例の男装の小姓姿のときには男勝りだったにもかかわらず、

(どうもかなわぬ)

と、行藤にだけは昔から、妙に素直に応じてしまうのである。

何かは分からないが藤子にはないものを行藤は秘めているように感じられた。

果然、何かしら訊いたところで行藤に、

「あの日は覚えておらぬゆえ分からぬ」

と、返されるのが常であった。



文永三年は波乱の幕開けであった。

正月の松ノ内にいきなり、祇園社の境内で無足の御家人どうしの斬りあいがあり、そのため大番役と判官の隊が出張る…という騒ぎが起きたのである。

たまたま行藤は非番で出ることはなかったが、洛中は新年早々の騒乱にざわつきはじめていた。

さらに。

二月には時ならぬ雹が降り、御所をはじめ、六波羅の探題屋敷や公卿屋敷など、ここそこで戸や御簾に穴が開く被害が出た。

その後。

流言非語が洛中を飛び交うようになり、それらを鎮めるべく、後嵯峨上皇の院宣が下され、祈祷が命ぜられたほどである。

で。

三月になると、今度は鎌倉の宮将軍こと宗尊親王が病に倒れた。

この話題は京でも持ちきりとなり、

「畏れ多くも宮様に鎌倉で一服、盛ったのでは」

という噂まで蔓延し、噂を打ち消すべく平癒の祈祷を幕府が奏請し、良基という僧が派遣される始末であった。

いっぽう。

六波羅から少し離れた二階堂家は、事態を危惧した祖父・行義の意向を受けて、行藤が鎌倉へ戻るかどうかで問題が出来した。

「嫁もめとって、身持ちもおさまったであろうゆえ、いいかげん鎌倉へくだってはどうか」

というのである。

仮にも行義は評定衆のひとりである。

その跡取りでもある行藤が長々と京にいるのは、あまり心証のよい事象ではなかったのである。

むろん、

(北条の内輪揉めに巻き込まれるなぞ、たまったものではない)

と行藤は、そのころ藤子に懐妊の兆しがあった──結局は違ったが──ことを理由に挙げ、現に下向を固辞している。

ところが。

本人以上に行藤の鎌倉下向を快く思わなかったのが、意外にも鎌倉にいる執権の北条政村である。

穏健派として知られ、慎重に慎重を期することの甚だしいこの老執権は、二階堂家が力を持つことを、良しとはしていない。

かつて。

かつて政村の生母の実家の伊賀家は、クーデター計画を立てた事実が露見し、母方の外戚がことごとく断罪された…という経験がある。

この異常な体験は、政村の進路を大いに阻んだばかりでなく、

「いつか外戚は、敵になる日が来る」

という教訓を浸透せしめている。

行藤の父・二階堂行有を、将軍の近侍から引付衆へ引き抜きするという人事を断行したのも、たとえ公卿に近い二階堂家すら、執権の差配ひとつで動かせるというデモンストレーションであった。

しかも。

行藤の妹は得宗家と不仲説のある名越家にかたづいている。

そこへ行藤に戻ってこられては、将軍か名越家にどうあしらわれるか分からないのである。

むしろ。

行藤を京へ置いて、将軍や名越家に利用されないよう離しておくのが、政村だけではなく得宗家の安泰に繋がるのである。

要は北条執権家や得宗家の利益にならなければ、行藤はじめとする在京の御家人の下向など、有り得ないのである。

そこは藤子も武家の暮らしぶりに少しは物慣れてきたからか、

「すべては鎌倉しだい、でございましょう」

と、どこか見透かしたような言い方をした。

藤子は最初から武家でないぶん、鎌倉や六波羅の物事が俯瞰できたらしく、それだけに、行藤が肝を冷やすような見方をすることもある。

しかし。

事態は進展している。

鎌倉から何とも信じがたい噂が飛び込んできたのは、それからほどなくである。

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