恋するキミの、愛しい秘めごと
――――……
―――……
「また歌ってる。最近俺にも伝染《うつ》ってて、困るんだけど」
パソコンを叩きながらキラキラ星を口ずさむ私の横で、榊原さんがおかしそうに苦笑する。
「あー、すみません」
「別にいいけどさ。それより、会社辞めちゃってよかったの?」
机が3台だけ並ぶ小さな事務所には、昼下がりの温かい太陽の光が差し込んでいる。
「いいんですよ、前から決めていたことですから」
笑いながらプリンターの電源を入れた私に、榊原さんは困ったように微笑んで、小さく「ごめん」と「ありがとう」という言葉を口にした。
ロンドンで、カンちゃんに別れの言葉を告げられてから2年。
数ヶ月前にH・F・Rを退社した私は、榊原さんが立ち上げたこの小さな会社で毎日を過ごしている。
「宮野は何て?」
「……わかりません。でも、もういいんです」
この私の決断を知ったら、カンちゃんはどう思うだろう。
それはもしかしたら、彼の意にそぐわないものかもしれないけれど、それでも全部自分で決めた事だから。
都内の喧騒から離れた場所に立つこの古い建物は、大きなケヤキの木の傍に建っていて、夜になると大きな窓からキレイな星空が見える。
「さて、じゃー私はこれを先方に届けたら行きますね」
「うん、気を付けて。あと……ありがとう」
「“ありがとう”のだだ漏れですね。勿体無いから、取っておいた方がいいですよー」
冗談めかして扉を開けて、古い鉄筋コンクリートの建物を出て、まだ明るい道を、真っ直ぐ前を向いて歩き出す。
――あの時。
イギリスに残ることを選んだカンちゃんと、彼の手を離すことを決めた私。
あの決断は、あの時のお互いにとって最良だったはず。
「……月が出てる」
“地球と月みたい”――と言ったカンちゃんの言葉を時々想い出して、胸が痛む日もあったけれど。
その気持ちも、もうすぐ終わりを迎えて消えてなくなる。
「さて、急がなきゃ」
今の私はそうなる事を強く望んでいて、そうする為に、2年近くガムシャラに頑張ってきた。
だけどそれも、もうすぐ全部終わるから……。それまでは、頑張らなくちゃ。
カバンを持つ手にギュッと力を込めて、ゆっくり一歩、足を踏み出す。
カンちゃんと離れ離れになって、彼のたくさんの想いを知った。
それに気付くことが出来ずに、彼を悲しませていた事を悔やんで、自己嫌悪に陥ったこともあったけれど……。
あの日――カンちゃんの部屋で、彼が私の為に作ってくれた小さな星空を見た日から、それを思い出して泣くことをやめた。
泣いていたって時間は戻せないし、何も変わらないから、それなら前に進む為にパワーを使った方がいいに決まっている。
気持ちを切り替えて、とにかく今の自分と向き合うことにした。
自分に何が出来るのか、自分が何をしたいのか。
そして、彼の為に何が出来るのか。
――これは、前に進む為の決断だ。
それも、もうすぐ――本当に、もうすぐ終わるから。
いつかこの日々が無駄ではなかったと思える日がくるまで、もう少しだけ頑張ろう。