夢現
クリーニング屋
不幸ではない。
仕事もあり、生活に困らない。
さらに人にも恵まれている。
不幸ではない。
けれど、苦しい。
人に言えない過去をずっと引きずっている。
それさえなければ、きっと幸せになれる。
幸せになれるのに。

休日の昼下がり、散歩に出かける。
暖かな午後。
見飽きた街並みが目の端を流れていく。
何気に目に入った店。
こんなところに店があっただろうか。
「クリーニング屋か…」
思わず呟いていた。
店にはありがちな張り紙が道に向かって張り出されていた。
「Yシャツ50%OFF」
「スカート3枚で20%OFF」
何気に見ていると、一つ気になる張り紙があった。
「過去もすっきり洗い流します」
過去…。
そんな訳はない。
そんな訳はないと思っているのに、僕の足は自然に店の中に向かっていった。
店の自動ドアが開くと同時に音楽が鳴った。
「いらっしゃいませ」
明るい声が店に響いた。
50代くらいだろうか?
女性が一人迎えてくれた。
店内を見回すが特に変わった様子はない。
ごく普通のクリーニング店だ。
奥には沢山の服がハンガーにつるされている。
手ぶらで入った僕を女性は不思議そうに見ていた。
僕もどう話を切り出して良いものか迷っていた。
「あの…」
僕は店内にも貼られていた「過去もすっきり洗い流します」という張り紙を見た。
女性は「ああ」と一人で納得したように声を上げて頷いた。
「浮気でもしましたかね」
おどけて笑った。
「いや…独身ですから」
女性は「冗談ですよ」と手を振った。
「そうですね、洗い流す内容の重さにもよりますが早いと1日、長ければ1週間くらい預かる事になりますね。料金はこの表を見て下さい」
女性はカウンターの上の表を指差した。
クリーニング屋の料金とは思えない価格表だ。
「預かるって何を預かるんですか?」
僕の質問に女性は笑った。
「Yシャツを洗いたかったら何を預けますか?」
「Yシャツでしょう」
「スカートを洗いたかったら、何を預けますか?」
「スカートでしょう」
少しずつ苛々しながら女性の質問に答える。
「じゃあ、あなたの過去を洗いたかった何を預けますか?」
少し考える。
一つしか思いつかない。
「僕を?」
女性はにこにこ笑いながら頷いた。

自分でも本当に馬鹿だと思う。
馬鹿だとは思うけれど会社に有給休暇の届を出して、貯金を下ろしてまたあの店に向かっている。
馬鹿であろうと、これで幸せになれるのであれば…。
僕の思考回路はもうそれしか考えられなくなっていた。

あの店に入る。
また先日と同じ女性が出迎えてくれた。
差し出された小さな紙に自分の名前や住所を書いた。
「メンバーズカードを作って頂くと割引料金にできますけどどうします?」
僕が書いた紙を眺めながら女性が聞いた。
僕が消したい過去は一つだけだ。
そう何度もここには来ないだろうと思ったので断った。
「それじゃあ、こちらにどうぞ」
女性は奥のカーテンを開けて僕を中に入れた。
箱が一つある。
四角い、ちょうど人間が一人入りそうな箱だ。
女性はその箱に入るようにと言った。
棺桶を想像してあまりいい気分ではない。
箱が閉じられる。
真っ暗になった箱の外から「クリーニングが終わるまではずっと消したい過去の事を思い出していて下さいね。なるべく細かく思い出さないと、落としきれない場合がありますから」という説明が聞こえた。
それから後の事は分からない。
どのくらいの時間がたったのかも分からない。

急に目の前が明るくなった。
僕は目が痛くて手をかざした。
あの女性が変わらず笑顔でこちらを見る。
「お疲れ様でした」
僕は箱から出る。
女性に見送られながら店の外に出る。
いつもと変わらない街並み。
僕は幸せになったのだろうか。
あまり実感がない。
明るい日差しの中、ゆっくり歩く。
そこに友人が通りかかった。
「こんなところで会うのも珍しいな」
友人に声をかける。
友人は不思議そうな顔で僕を見る。
「すみません、何処かで会いましたっけ?」
「何を言ってるんだよ。この前一緒に飲みに行ったばかりだろう」
ふざけているのかと思って、肩を叩く。
友人は不快そうな顔で僕の手を払いのけた。
「何するんですか。どなたかとお間違いじゃないですか」
そしてそのまま足早に何処かに行ってしまった。
何が何だか分からない。
あの友人を怒らせるような事でもしただろうか。
携帯を開く。
共通の友人に連絡をしようとして電話帳を見る。
記録したはずの友人がいない。
それどころか他の友人たちの番号もなくなってしまっている。
何が起こったんだ?
変わる事があるとすれば…。

僕は急いでクリーニング屋に戻った。
初めて入った時と同じ音楽が流れた。
「いらっしゃいませ」
初めて入った時と同じ明るい声が響いた。
「あの…」
僕はおずおずと女性に声をかけた。
女性は笑顔のまま「あら、さっきのお客さん。何かありました?」と聞いてきた。
「友人の連絡先が消えているんです」
携帯を見せながら言った。
女性は笑いながら言った。
「そりゃそうですよ。過去を洗い流したんですから」
僕は言葉を失った。
「過去を積み重ねて今のあなたがいるのだもの。その積み重ねたものを途中で引き抜いてしまえば、そこに積み重ねたものもなくなりますよ」
当たり前のように言った。
冗談じゃない。
僕は段々腹が立ってきた。
冗談じゃない。
一つの過去を消して、失うには大き過ぎる。
僕はただ、幸せになりたかっただけだ。
それなのに全部がなくなったなんて、そんなのどう納得しろと言うんだ。
「返せ。僕の過去を返せ」
カウンター越しでなければ僕は彼女に掴みかかっただろう。
残念ながら、後ずさる女性に手が届かなかった。
僕の剣幕に驚きながらも彼女は言った。
「洗い流したものを元に戻せる訳ないじゃないですか」
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