泡沫の人 【TABOO アイドル】
本文
風は、沿岸から岸に向かって吹いていた。たき火台の傍らで珈琲を飲みながら、私は海と彼を眺めていた。

「火、あたっていい?」

聞き覚えのある声に、私は「どうぞ」と気安く答え、隣に人が並んだ気配に横を見て、固まった。
息を飲み見つめた綺麗な横顔の主は、テレビで見ない日がない人気アイドル『槇大介』だった。
彼と同じく、波乗りが趣味という『槇大介』を、今までにも何度か見かけたことはあったけれど、話しかけられたのは初めてだった。

「ちょい、バタついてるね」

海面を見てそう言う『槇大介』に、私も視線を海に戻して頷いた。

「昨日はオフショアだったらしいけど。あなたもこれから?」
「いや。撮影中はおあずけ」

現実から切り離されたような奇妙な浮遊感と胸の高鳴りが、私を支配していく。
その時、私の携帯電話が鳴った。
ため息が零れる。

「出ないの?」

電話を無視している私を怪訝そうに眺めている『槇大介』に、私は肩を竦めた。

「会社からなの。臨出してくれって話だと思う。そんなこと彼に言ったら、一人で帰れって怒鳴られちゃうわ」

私の言葉にふうんと鼻を鳴らした『槇大介』は、目を細めて私を見た。

「送ろうか、オレの車で」

悪戯小僧のようなその顔に、私は思わず吹き出した。

「ゴメン。彼とデート中だから、仕事もあなたもパス」
「それは残念」

言葉とは裏腹に、少しも残念に聞こえないその声は、甘くて柔らかな響きがあった。
ふいに、私の手にあったマグカップを取り上げて、『槇大介』は残っていた珈琲を飲みほした。

「さて、退散しよ」

ゴチと言って手を振って去っていく後ろ姿を唖然と眺めていると、彼が私の名を呼んだ。

「何話してたんだよ」

明らかに不機嫌な声だった。

「ナンパされた。でも彼のほうがいい男だからって、フったとこ」

うふふと笑いながら告げた言葉に、彼の仲間が彼を冷やかした。「バカヤロ」と言う彼の声には、照れと嬉しさが滲んでいた。

「いつものやつ、作ってくれよ」
「はいはい」

私の『日常』が戻ってきた。彼の大好物、ベーグルのフレンチトーストを私は作り始めた。

この幸せは、手放せない。

改めて、それを実感しながら、空になったマグカップを私は両手で包み込んだ。
夢のように綺麗な青年が傍らにいたあのつかの間のトキメキを、私は胸の奥底に仕舞いこんだ。
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