ボレロ - 第一楽章 -

15, vacillando ヴァチランド (ゆれて、ためらって)


あの夜の記憶は、時間がたつにつれより鮮明になっていた。

彼の優しい手が私を何度も抱きしめ、あますところなく肌をたどっていった。

人肌が恋しい日だった。

小さい頃なら、母親の腕か父親の膝だったろう。

遠い昔、寂しさを感じるとぬくもりを求めて誰かに抱きしめてもらった。

大人の男女が抱き合うのは、同じような意味合いがあると聞いたことがある。

あの日、私は彼にぬくもりを求めた。


私を抱え込むように眠る宗一郎さんの腕をそっとはずし、

静かにベッドを離れた。

カーテンの隙間から外を覗くと、東の空がほんのりと明るくなりかけている。

昨夜の雨はあがっていたが、都会のビル群を覆うように深い霧が

立ちこめていた。

短い睡眠をむさぼる彼を起こさぬように、息を潜めながら素肌に服を纏う。


『帰っても誰もいないんだろう? ゆっくりしていけばいい。

朝早く送って行くよ』 


何気なく、いつも話すように向けられた宗一郎さんの言葉に 

『そうね……』 と返事をしていた。


これまでいく度となく食事を共にし、同じ時間を過ごしてきたのに、

私たちは互いに知らないことが多すぎた。

一晩中、彼と語り明かしたいとも思った。

けれどあの夜、私たちの間に会話はなかった。

素肌にぬくもりがあれば充分だった。


交際を始めても、その過程に至らない人もいた。

私は、どちらかと言えば物堅いと言われてきた。

お高く留まっている、とあからさまに言う男性もいた。


誰かと初めて肌を重ねるとき、これまでの私ならそれ相応の心の準備が

必要だったはず。

けれど、宗一郎さんの前では準備など要らなかった。

言葉よりも、肌よりも、心が彼と重なりたいと願ったのだから。



「早いね。何時?」


「起こしちゃったわね。まだ夜明け前よ。

夜が明ける前に帰ろうと思って……タクシーをひろうわ」



ベッドから上体を起こした宗一郎さんはメガネに手を伸ばした。

あの人も、目覚めるとメガネを探っていたと、今では遠い記憶となった

人の仕草が蘇ったが、彼が見慣れた顔に戻った頃、その記憶もまた、

引き出しの奥にしまわれた。


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