紅睡蓮の墓守邸
本編 1
太陽の燦々と降り仕切るさなか、適度に湿った空気が道行く人々の心を潤わす。軽い通り雨の後をじめっとした湿気ではなく、気分を良くする爽やかな空気が支配している。一日で最も気温の高い真昼であっても、今の時期の陽光は不快な暑さを感じさせない。雨の余韻に草木が露を濡らしていなければ、まさに春のうららかな御日柄である。
きちんと大きさの揃った石畳の上を様々な人が歩いている。伝統的な和装の者、最近になって伝来した洋装の者、人力車が走って行く光景、街並みにもレンガ造りの家から木造の家まで、和洋折衷である。
全体的に和風のものがまだ多く占める街並みを、周囲から奇異の視線を集めてのんびり歩く青年の姿がある。文明開化に忙しい時代でも、その姿はやはり異彩を放つ。黒髪黒目の日本人の中で、青年は外国の色彩を色濃く持った容姿をしているのだ。栗色の髪は肩にかかるほどで、紺色の袖から覗く肌は白すぎる。瞳だけが周囲と同じ漆黒だ。
見るからに外国の血を引く青年は、刺すような視線にも慣れた様子で気にする素振りはない。柔らかい、優しそうな雰囲気を保ったまま歩いている。
青年は上機嫌だった。周りにはのんびりとしているように映るが、本人は普段より少し早く足を動かしている。青年の手には一輪の花が握られている。赤く色付いた雛罌粟の花である。
目的地に向かう途中に寄り道をしたところ、満開に咲いているのを見つけて一輪手折ってきたのだ。手の中の雛罌粟は美しく、手折っても色鮮やかさを保っている。
青年は一輪の雛罌粟に時折視線を落として目元を和やかにする。
初めは整備された石畳が足元を覆い、石橋が川に掛けられ、道の両脇をいくつもの店が賑わっていたが、青年が進むに連れてそれらは少しずつ姿を消していく。石畳は剥き出しの地面へ、両脇の店はまばらになって耳に届く喧騒も音を小さくする。開国に伴って変化してきた街並みが、ひと昔前の光景を醸し出す。
速度を緩めないまま向かう先に、青年の待ち望んでいたものが見えた。青年はぱっと嬉しそうな顔をする。視線の先では何の変哲もない竹藪があった。それほど奥深くない竹藪で、反対側には小さな道も通っている。
青年は迷わずに竹藪の中に足を踏み入れていく。ざくざくと雑草を踏み分け長く伸びる竹を避けて、そろそろ反対側の道が見えてくる頃。明らかにおかしな現象が起こる。
ゆらりと目の前の空間が揺らいで、向こうの風景が歪んだ。
普通の人間ならぎょっと目を剥くところだが、青年は逆に嬉しそうに揺らいだ空間に手を伸ばす。歪みに触れた瞬間、青年の姿はぱっと竹藪から消え去る。
一瞬の揺れを感じた後、青年の前に広がる光景は一転していた。先ほどまでは確かになかった大きな日本家屋がどん、と威圧感も露わに建っている。背後には竹藪が見られるがその向こうは見通せず、目の前の屋敷にしても横に広く塀が伸びているので視界に映るのは空と屋敷のみである。
動揺もなく青年が屋敷に近寄ると、閉ざされた門扉の横に“睡蓮邸”と掘られた木札が下げられている。青年が立派な門扉を叩く前に、内側から門はぎぎ、と軋みを上げて開けられた。
青年が遠慮なく門をくぐると、屋敷の大きさに比例して大きな門を開いた小さな影がちょこちょこと出てくる。
「こんにちは、鬼丸」
にっこりと青年が挨拶した先に、奇妙なものがいた。人間にして五歳ほどの背丈の小鬼だ。浅黒い肌に菖蒲色の着流しを纏い、頭の頂点に鋭い角を一本生やしている。おそろしげな外見だが、その身長と顔に浮かぶ笑顔が可愛らしく見せている。
鬼丸と呼ばれた子鬼は青年の前に立つと、深々と頭を下げる。
「お帰りなさいませ、十(と)澄(ずみ)様。姫様もお待ちでございます」
「そっか。今日は少し遅れてきちゃったからね。でも手土産はあるんだよ」
「それは雛罌粟でございますね、お喜びになるでしょう」
青年、十澄の手の中にある花を認めて鬼丸はにこにこと険しい造りの顔を和ませる。人間と鬼の種族の違いはあっても、互いの間に流れる空気は友好的で和やかだ。
鬼丸は笑顔を崩さないまま、十澄を奥に控える屋敷まで先導する。ここまで歩いてきた大通りの石畳より綺麗に手入れされた石畳を辿ると、開け放たれた玄関の先の三和土が見える。
これまでの経験から不安になった十澄は、前を歩く鬼丸に声を掛けようとした。
「鬼丸、そこの段差に気を付け……」
「はい? っ……ぎゃん!」
「あちゃあ」
すべて言い終える前に、前方不注意になった鬼丸がびたん、と痛そうな音を立てて転ぶ。玄関前の段差につまずいて、開け放たれた入り口の敷居に鬼丸の顔がぶつかっている。
一瞬遅かったと十澄は手を額に当てて天を仰ぐ。
「ぐぬぬぬぅ」
鬼丸は敷居にぶつけた額を手で押さえ、痛そうに呻いている。
十澄は心配半分、呆れ半分の表情で鬼丸に近寄る。
「大丈夫、鬼丸? 怪我はしてない?」
「はい。大丈夫でございます」
生来生真面目な鬼丸は情けない姿を晒すのを厭ったのか、ばっと立ち上がって十澄に何もなかった風を装う。だが真ん丸な目は痛みに潤み、額には敷居にぶつけた痕がくっきり残っている状態では逆に愛らしく見える。
親の見ている前で些細な失敗をして恥ずかしがる子どもを見ている気分だ。
十澄は苦笑を堪えて、優しく労わる。
「あとで額を冷やしておくといいよ。じゃないと打撲になるかも」
「むむ。情けないお姿をお見せして申し訳ありません」
額を押さえて転んだ痕に気付いた鬼丸は浅黒い肌を赤くする。それから誤魔化すようにわたわたと十澄を屋敷の中に招き入れる。
十澄が三和土で下駄を脱ぐといつもの通り、鬼丸は屋敷を案内しようとする。それを十澄は引き留めた。
「鬼丸。額を冷やしておいで。ぼくは一人でも行けるから」
「ですが、貴方様を案内するのが私のお役目でござれば」
「ああ、そっか。それじゃあ、今度はぼくのお願いを聞いてくれない? 彼女にはぼくから言っておくから」
「ぬぅ、十澄様がそこまでおっしゃられるなら、致し方ありません」
鬼丸は渋々と引き下がると、廊下の奥を指し示して言う。
「今日の姫様は鈴蘭の間にいらっしゃられます。このままお進みになって、突き当りを右にお曲り下さい」
「うん。鈴蘭の間ならぼくにも分かるよ」
広大な屋敷には百以上の部屋があるので、初めて来た客は迷いやすい。十澄も屋敷に上がった当初は散々に迷って半泣きになったこともあるが、今はもう屋敷の構造はほとんど頭に入っている。すべて、と言えないのが、大きすぎる屋敷の恐ろしいところだ。
鬼丸に見送られて十澄は一人で鈴蘭の間に向かう。広い邸宅だが、長い廊下を歩いてもなかなか住人には出会わない。大きさに反して利用者が少ないのだ。
口頭で教えられた通り、何分もまっすぐ廊下を歩いた先の突き当りで右に曲がる。その先をまたずっと直進した場所に鈴蘭の間はある。時間を掛けて辿り着いた部屋の横壁には、名の通り鈴蘭の絵が彫られている。
十澄が部屋の中に声を掛けようとした途端、すっとふすまが静かに開けられる。室内にも関わらず、涼しい微風が頬を撫でた。
「あれぇ? 鬼丸がいないじゃない」
素っ頓狂な甲高い声を上げて顔を出したのは、小柄な少女だ。やや釣り目気味の目元が気の強さを表して、小作りな桃色の唇が可愛らしい。一見すると七、八歳ほどの将来が楽しみな普通の子どもだが、その身体は宙にふわふわと浮き、半透明である。
十澄はきょろきょろと廊下を見回す半透明な少女に苦笑する。
「鬼丸は玄関で転んだから、額を冷やしに行ってもらったよ」
「うんまぁ! また転んだの、あの子! おっちょこちょいねえ」
桜色の頬に手を当てて、少女は困った子を見るような顔をする。
鬼丸が礼儀正しく有能な家令なのは事実だが、少しドジな面があるのは屋敷に住む者の共通認識である。
「それで風切姫、彼女は中にいる?」
「え? ええ、もちろんよ。中に入ってちょうだい」
風の精霊である少女は慌てて入り口から退いて、十澄を部屋に招き入れる。
鈴蘭の間は白を基調に造られた部屋だ。二十畳の広さの鈴蘭の間には柱や梁に凝った紋様と共に鈴蘭が刻み込まれ、違い棚に置かれる小物も白く、床の間に飾られる花は鈴蘭、掛け軸も白を基調にしている。
一目見て立派な構造に目を奪われるが、部屋の中にはそれを上回って余りある存在感を放つ者が居座っている。
「ずいぶんと遅かったのう、景」
きちんと大きさの揃った石畳の上を様々な人が歩いている。伝統的な和装の者、最近になって伝来した洋装の者、人力車が走って行く光景、街並みにもレンガ造りの家から木造の家まで、和洋折衷である。
全体的に和風のものがまだ多く占める街並みを、周囲から奇異の視線を集めてのんびり歩く青年の姿がある。文明開化に忙しい時代でも、その姿はやはり異彩を放つ。黒髪黒目の日本人の中で、青年は外国の色彩を色濃く持った容姿をしているのだ。栗色の髪は肩にかかるほどで、紺色の袖から覗く肌は白すぎる。瞳だけが周囲と同じ漆黒だ。
見るからに外国の血を引く青年は、刺すような視線にも慣れた様子で気にする素振りはない。柔らかい、優しそうな雰囲気を保ったまま歩いている。
青年は上機嫌だった。周りにはのんびりとしているように映るが、本人は普段より少し早く足を動かしている。青年の手には一輪の花が握られている。赤く色付いた雛罌粟の花である。
目的地に向かう途中に寄り道をしたところ、満開に咲いているのを見つけて一輪手折ってきたのだ。手の中の雛罌粟は美しく、手折っても色鮮やかさを保っている。
青年は一輪の雛罌粟に時折視線を落として目元を和やかにする。
初めは整備された石畳が足元を覆い、石橋が川に掛けられ、道の両脇をいくつもの店が賑わっていたが、青年が進むに連れてそれらは少しずつ姿を消していく。石畳は剥き出しの地面へ、両脇の店はまばらになって耳に届く喧騒も音を小さくする。開国に伴って変化してきた街並みが、ひと昔前の光景を醸し出す。
速度を緩めないまま向かう先に、青年の待ち望んでいたものが見えた。青年はぱっと嬉しそうな顔をする。視線の先では何の変哲もない竹藪があった。それほど奥深くない竹藪で、反対側には小さな道も通っている。
青年は迷わずに竹藪の中に足を踏み入れていく。ざくざくと雑草を踏み分け長く伸びる竹を避けて、そろそろ反対側の道が見えてくる頃。明らかにおかしな現象が起こる。
ゆらりと目の前の空間が揺らいで、向こうの風景が歪んだ。
普通の人間ならぎょっと目を剥くところだが、青年は逆に嬉しそうに揺らいだ空間に手を伸ばす。歪みに触れた瞬間、青年の姿はぱっと竹藪から消え去る。
一瞬の揺れを感じた後、青年の前に広がる光景は一転していた。先ほどまでは確かになかった大きな日本家屋がどん、と威圧感も露わに建っている。背後には竹藪が見られるがその向こうは見通せず、目の前の屋敷にしても横に広く塀が伸びているので視界に映るのは空と屋敷のみである。
動揺もなく青年が屋敷に近寄ると、閉ざされた門扉の横に“睡蓮邸”と掘られた木札が下げられている。青年が立派な門扉を叩く前に、内側から門はぎぎ、と軋みを上げて開けられた。
青年が遠慮なく門をくぐると、屋敷の大きさに比例して大きな門を開いた小さな影がちょこちょこと出てくる。
「こんにちは、鬼丸」
にっこりと青年が挨拶した先に、奇妙なものがいた。人間にして五歳ほどの背丈の小鬼だ。浅黒い肌に菖蒲色の着流しを纏い、頭の頂点に鋭い角を一本生やしている。おそろしげな外見だが、その身長と顔に浮かぶ笑顔が可愛らしく見せている。
鬼丸と呼ばれた子鬼は青年の前に立つと、深々と頭を下げる。
「お帰りなさいませ、十(と)澄(ずみ)様。姫様もお待ちでございます」
「そっか。今日は少し遅れてきちゃったからね。でも手土産はあるんだよ」
「それは雛罌粟でございますね、お喜びになるでしょう」
青年、十澄の手の中にある花を認めて鬼丸はにこにこと険しい造りの顔を和ませる。人間と鬼の種族の違いはあっても、互いの間に流れる空気は友好的で和やかだ。
鬼丸は笑顔を崩さないまま、十澄を奥に控える屋敷まで先導する。ここまで歩いてきた大通りの石畳より綺麗に手入れされた石畳を辿ると、開け放たれた玄関の先の三和土が見える。
これまでの経験から不安になった十澄は、前を歩く鬼丸に声を掛けようとした。
「鬼丸、そこの段差に気を付け……」
「はい? っ……ぎゃん!」
「あちゃあ」
すべて言い終える前に、前方不注意になった鬼丸がびたん、と痛そうな音を立てて転ぶ。玄関前の段差につまずいて、開け放たれた入り口の敷居に鬼丸の顔がぶつかっている。
一瞬遅かったと十澄は手を額に当てて天を仰ぐ。
「ぐぬぬぬぅ」
鬼丸は敷居にぶつけた額を手で押さえ、痛そうに呻いている。
十澄は心配半分、呆れ半分の表情で鬼丸に近寄る。
「大丈夫、鬼丸? 怪我はしてない?」
「はい。大丈夫でございます」
生来生真面目な鬼丸は情けない姿を晒すのを厭ったのか、ばっと立ち上がって十澄に何もなかった風を装う。だが真ん丸な目は痛みに潤み、額には敷居にぶつけた痕がくっきり残っている状態では逆に愛らしく見える。
親の見ている前で些細な失敗をして恥ずかしがる子どもを見ている気分だ。
十澄は苦笑を堪えて、優しく労わる。
「あとで額を冷やしておくといいよ。じゃないと打撲になるかも」
「むむ。情けないお姿をお見せして申し訳ありません」
額を押さえて転んだ痕に気付いた鬼丸は浅黒い肌を赤くする。それから誤魔化すようにわたわたと十澄を屋敷の中に招き入れる。
十澄が三和土で下駄を脱ぐといつもの通り、鬼丸は屋敷を案内しようとする。それを十澄は引き留めた。
「鬼丸。額を冷やしておいで。ぼくは一人でも行けるから」
「ですが、貴方様を案内するのが私のお役目でござれば」
「ああ、そっか。それじゃあ、今度はぼくのお願いを聞いてくれない? 彼女にはぼくから言っておくから」
「ぬぅ、十澄様がそこまでおっしゃられるなら、致し方ありません」
鬼丸は渋々と引き下がると、廊下の奥を指し示して言う。
「今日の姫様は鈴蘭の間にいらっしゃられます。このままお進みになって、突き当りを右にお曲り下さい」
「うん。鈴蘭の間ならぼくにも分かるよ」
広大な屋敷には百以上の部屋があるので、初めて来た客は迷いやすい。十澄も屋敷に上がった当初は散々に迷って半泣きになったこともあるが、今はもう屋敷の構造はほとんど頭に入っている。すべて、と言えないのが、大きすぎる屋敷の恐ろしいところだ。
鬼丸に見送られて十澄は一人で鈴蘭の間に向かう。広い邸宅だが、長い廊下を歩いてもなかなか住人には出会わない。大きさに反して利用者が少ないのだ。
口頭で教えられた通り、何分もまっすぐ廊下を歩いた先の突き当りで右に曲がる。その先をまたずっと直進した場所に鈴蘭の間はある。時間を掛けて辿り着いた部屋の横壁には、名の通り鈴蘭の絵が彫られている。
十澄が部屋の中に声を掛けようとした途端、すっとふすまが静かに開けられる。室内にも関わらず、涼しい微風が頬を撫でた。
「あれぇ? 鬼丸がいないじゃない」
素っ頓狂な甲高い声を上げて顔を出したのは、小柄な少女だ。やや釣り目気味の目元が気の強さを表して、小作りな桃色の唇が可愛らしい。一見すると七、八歳ほどの将来が楽しみな普通の子どもだが、その身体は宙にふわふわと浮き、半透明である。
十澄はきょろきょろと廊下を見回す半透明な少女に苦笑する。
「鬼丸は玄関で転んだから、額を冷やしに行ってもらったよ」
「うんまぁ! また転んだの、あの子! おっちょこちょいねえ」
桜色の頬に手を当てて、少女は困った子を見るような顔をする。
鬼丸が礼儀正しく有能な家令なのは事実だが、少しドジな面があるのは屋敷に住む者の共通認識である。
「それで風切姫、彼女は中にいる?」
「え? ええ、もちろんよ。中に入ってちょうだい」
風の精霊である少女は慌てて入り口から退いて、十澄を部屋に招き入れる。
鈴蘭の間は白を基調に造られた部屋だ。二十畳の広さの鈴蘭の間には柱や梁に凝った紋様と共に鈴蘭が刻み込まれ、違い棚に置かれる小物も白く、床の間に飾られる花は鈴蘭、掛け軸も白を基調にしている。
一目見て立派な構造に目を奪われるが、部屋の中にはそれを上回って余りある存在感を放つ者が居座っている。
「ずいぶんと遅かったのう、景」
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