駆ける火
☆☆☆☆☆☆☆
 カナル型イヤホンを装着する。耳にフィットしないと落ち着かないし、重低音を体内に取り込み、その音域と共に大地を踏みしめ駆け抜けることを、理沙は習慣にしている。
 マラソン。
 区内のマラソン大会に会社の行事をきっかけに走破した経験が彼女の現在を物語っている。仕事は定時に終わり、それから体力作りと、レベルの高い大会に出場し、入賞までしたいと密かに目論む。ストレッチを入念に行い、シューズの紐を幾分か軽めに締める。
 iPodのホイールを回し、ビートルズの曲を流し込む。マラソンに熱を入れ出してから、大学四年から付き合っている彼とは会う機会が少なくなった。交際して五年。交際が長引くほどに、会えば儀礼的に肉体を重ね合わせるだけ。そこには愛もなければ、同情という欠片もない。あるのは、彼氏、という記号が存在するのみ。それもあの出来事があってからだ。
 
 あれは一ヶ月前のことだった。いつものように土手沿いを走っているときに、川沿いに紅蓮の光が見えた。何かに導かれるように理沙は光を目指した。そこには一人の男がいた。二十代後半。がっちりとした体格に相応しい短髪。切れ長の目。耳にはピアスが揺れていた。光の正体は、焚き火、だった。
「君もマラソンを?」体格にそぐわない風のような声だった。その声は焚き火の煙をも消すかのように。その光景に理沙は見惚れ、「ええ、まあ」と素っ気ない返事しかできなかった。
 気にせず彼は、「実は僕もマラソンをね」と白光りした歯を理沙に向けた。
「温かい」理沙は手を焚き火に翳した。
「火は心を温かくする。それに」彼は何か含みを持たせ言葉を止めた。
 それ以来、理沙は毎晩土手で焚き火の彼と走るようになった。彼の名前は『守』と云った。

「ビートルズ聴いてくれてるんだ?」守が小枝を焚き火に放り込む。
「守の影響よ」理沙は正直に言い、「ビートルズの曲は人の心を掴むのがうまい。君と僕が打ち解けたように、さらには枝が火に溶け込むように」守が彼女をぐっと引き寄せた。
 理沙の呼吸が荒くなる。
「彼氏ではなく、僕にしな」
 理沙は何か言おうとしたが、唇を塞がれた。片耳のイヤホンが外れ、音が漏れ、炎の揺らぎと互いの滑らかな舌の動きが連動する。
 耳元で、「火は愛をも燃焼させるんだ」と守。
 その声に理沙の全身は溶け、焚き火から粒子のような火の粉が宙を舞い、消えた。
 
 
 
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