EVER BLUE

弟が見る兄の欠点

黒塗りの高級車の扉を開け、千彩はすぅっと大きく息を吸い込んだ。恵介から贈られた、お気に入りのシフォンフリルのワンピース。歩く度に裾がふわりと揺れ、千彩は俯いてその動きを見つめながら吉村に手を引かれていた。

「どれにしよか」
「ちさ、プリン」
「ちー坊の好きなもんはわかっとる。ハルさんのご家族に、や」

突然九州への出張が決まり、千彩は晴人との約束通り三木家に預けられることになった。大人嫌いの千彩のこと、やはり晴人がいなければ心細い。お気に入りのぬいぐるみを抱き締めてむぅっと膨れっ面をする千彩は、朝から何度目かになる目を吉村へと向けた。

「そんな目してもあかん。おにーさまはお仕事で行くんやからな」
「むぅー」
「お土産買うてきたるからおりこーにしとけ」
「ちさも一緒に行きたい」

確かに、東京での仕事はしなくともよくなった。けれど、やはり吉村は多忙で。家には吉村の両親がいると言えど、千彩をそこまで可愛がってくれているわけではない。加えて晴人もどうやら仕事が忙しいらしく、会いに来るどころか千彩が眠ってしまってから電話やメールが来るなど、すれ違いの寂しい生活に千彩の不満は募る一方だった。

「はるのとこ帰りたい」
「ハルさんかてお仕事があるんや。あっ、これと、これと、それから…これお願いします」
「はい。畏まりました」

膨れる千彩の頭をポンポンと撫でながら、吉村は手土産にするケーキを店員に頼み、ハッと気付いてショーケースを指した。

「すんません、このプリンもお願いします」

これが無いとさすがにゴネるどころではない。危うく千彩のプリンを忘れかけたことにふぅっと大きく息を吐き、今にも地団駄を踏みそうなくらいに膨れっ面をした千彩の頬を指先で突いた。

「そんな顔せんのや。女の子はいつでもにこにこしてなあかん言うてるやろ?」
「だってー」
「ほな、じーちゃまとばーちゃまとおるか?」
「イヤ!はるのとこ帰る」

晴人や仲間達に散々甘やかされていただけに、千彩にはそこが天国のように思えて。晴人の家に戻れば、皆が構ってくれる。仕事に行っている間も、家事の手伝いをしたり、アニメを見たりと一人で留守番だって出来る。約束はしたものの、やはり一人の寂しさには耐えられそうもなかった。

「おりこーにしとったら、またすぐハルさんが会いに来てくれるから」
「いつ?」
「いつかはわからへん。ハルさんもお仕事してはるからな」

お仕事、お仕事、お仕事。いつだってそればっかりだ。と、千彩はカンッとヒールを鳴らして抗議した。けれど、幼い頃から千彩の面倒を見て慣れている吉村は、晴人達と違って機嫌取るようなことはしなかった。

「お待たせいたしました」
「おおきに」
「またお待ちしております」

店員から小さな箱を受け取り、吉村は店を出ようと背を向ける。ぬいぐるみを抱えたままの千彩は、ギュッと両足を踏ん張って動かない意志を示した。

「悪い子は放って帰るからな」
「ちさ悪い子違うもん!」
「おりこーにできん子は悪い子や。そんな子にハルさんは会いに来てくれへんぞ」

晴人の名を出されれば、いくら頑固者の千彩とて弱い。渋々足を進め、黒塗りの高級車へと乗り込んだ。


膨れっ面のままこれでもか!とぬいぐるみを抱き締めること数分。二階建の一軒家の前で車を停めると、吉村は千彩を助手席から無理やり降ろしてインターフォンを鳴らした。

「お世話になります。吉村です」

いつでもスーツ姿の吉村は、やはり今日も今日とてスーツ姿で。そんな姿で黒塗りの高級車から降りてくるものだから、家の中でその様子を窺っていた智人はふぅっと小さくため息を吐いて玄関で母を引き止めた。

「なぁ、母さん」
「んー?」
「やっぱお兄の結婚、やめさした方がええんちゃうん?」
「何で?ちーちゃんいい子やないの」
「でも…」

確かに、千彩が「悪い女」だとは思わない。一度会って少し会話をしたくらいだけれど、兄が異常に可愛がっていることもわかる。

けれど、智人にはどうにも納得がいかなかった。

「こんにちわ。お言葉に甘えてお世話になります。これ、良かったら皆さんでどうぞ」
「あらっ、ありがとう。いらっしゃい、ちーちゃん」

にっこりと微笑みかける母に、やはり千彩は俯いたままぬいぐるみを抱き締めていて。そんな千彩の頭をパシンッと叩き、吉村は深々と頭を下げた。

「すんません。どうも朝から機嫌が悪ぅて。ちー坊、ちゃんとご挨拶せんか!」
「…こんにちわ」

吉村に頭を叩かれ、チラリと視線を上げた千彩の目は涙目で。あらあら…と困ったように笑いながら二人分のスリッパを出す母を、吉村が軽く制した。

「すんません。今日はここで失礼します」
「あら。急ぐの?」
「はい。はよぉ来るように急かされてまして」
「ほんなら仕方ないわねぇ。気をつけてね」
「はい。ありがとうございます。ほな、よろしくお願いします」

再度深々と頭を下げ、千彩の荷物を玄関先に置いて吉村は扉に手を掛けた。それに待ったを掛けたのは、大好きなぬいぐるみを投げ出した千彩だった。

「ちさも行くっ!」
「あかん言うてるやろ」
「イヤー!ちさもおにーさまと行くー!」

吉村の腰にしっかりとしがみ付き、千彩は泣きながら最後の抵抗を試みる。そんな千彩をベリッと引き剥がし、吉村は再びパンッと千彩の頭を叩いた。

「あかんてなんべん言うたらわかるんや!」
「ちさも行くぅ…」
「おにーさまはお仕事や。お仕事の邪魔する子は悪い子やぞ!」
「だって…だってぇ…」
「だってちゃう!おりこーにしとけ。せやないと迎えに来んからな!」
「うぅ…わーん!」

とうとうペタリと座り込んで泣き声を上げた千彩を置いて、吉村は扉を押し開けた。

「暫く放ってたら泣き止む思いますんで、よろしゅうお願いします」
「はいはい。お気をつけて」

手足をバタつかせてわんわんと泣く千彩は、まるでおもちゃ屋の前で物を強請る子供のようで。何でこんな女が兄と…と、壁に凭れかかって腕組みをしていた智人は鈍い頭痛にフルフルとゆるく頭を振った。

智人にとって、三つ上の兄である晴人は憧れの存在で。幼い頃からスーパーマンのように何でも出来た兄は、いつでもどこでも人気者だった。恵介を初め、晴人に憧れ、慕う友は多くいたし、寄って来る女達もそうだった。

そんな晴人が智人の自慢でもあり、コンプレックスでもあり。わざと就職もせずフラフラと生活をしながら、「いつか兄貴より有名になってやる!」とバンド活動に精を出していた。

「ちーちゃん、一緒にケーキ食べようか?」
「おにーさまー!わーん!」

それだと言うのに、目の前でわんわんと子供のように泣いている女は兄の結婚相手で。もっといい女がいるはずなのに何で…と、苛立ちながら智人は玄関口に降りてグッと千彩の腕を引いた。

「取り敢えず入れ」
「うー…」
「服が汚れる。どうせお兄に買うてもろた服なんやろ。大事にせんかい」

無理やりに千彩を立たせ、智人はそっとワンピースに付いたゴミを払って母へとその小さな体を預けた。

「泣くな。ガキめ」
「うー…」

ゴシゴシと涙を拭きながら、千彩は智人を見上げる。そっくり、とまではいかないけれど、やはり兄弟だけあって智人の顔は晴人によく似ていて。会いたい、会いたい、とばかり思っている千彩は、ギュッと智人に抱きついて額を擦り付けた。

「はるぅ…」
「ちょっ!離せ!」
「はるぅ…」
「俺はハルちゃう!トモや!」
「うー…」

引き剥がそうとするも、千彩も必死にそれに抵抗して。結局諦めた智人は、兄の名前を呼びながらシクシクと泣く千彩の頭を撫で、はぁ…っと深いため息を吐いて柔らかな体を抱き締めた。

「俺が遊んだるから泣くな。な?一緒にケーキ食うか?」
「…うん」

晴人よりも少し逞しい智人の腕に抱かれ、漸く千彩も落ち着いたようで。そんな二人の様子を見ながら笑う母に、智人は眉を顰めた。

「お兄には黙っとけよ」
「そうやねぇ。晴人に言うたら怒って飛んで来るかも」
「言うな!言うとるねん」
「はいはい。良かったねぇ、ちーちゃん。お兄ちゃんと一緒にケーキ食べようね」
「うん!ちさのプリンも買ってもらった!」

智人の腕の中で、つい数十秒前まで泣いていた千彩がにっこりと笑う。それを見下ろしながら、智人は「これか…」と兄の思いを悟った。

コロコロと表情の変わる千彩は、一瞬にしてその場の空気さえも変えてしまう。泣いたり笑ったりの素直な感情表現は、純真な千彩だからこそ出来ること。もう二十代も半ばを超えた自分は勿論、スーパーマンのような兄でさえもそれは不可能だ。

「よし、千彩。プリン食ったらプール行くか」
「プール!?行く!」
「ほな、お姉ちゃんの水着出そうか」
「やったー!プール!」

はしゃぐ千彩の頭をよしよしと撫で、智人は思った。スパーマンにも、欠点くらいないとな。人間だし、と。
< 14 / 37 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop