EVER BLUE

最高の誕生日プレゼント

どうもおかしい…と、晴人が異変に気付いたのは、毎朝起きて自分のお弁当を作る千彩が起きてこなくなってからだった。

結婚前の同棲期間から、それは千彩の日課で。元々凝り性だったのか、色んな料理本を見てはそれはそれは熱心に研究していた。

それなのに、ここ一週間はお弁当どころか、見送りさえもしてくれなくなった。そう早い時間に家を出るわけではないのだけれど、完全に寝入ってしまっているのだ。そして、いつも昼を過ぎてから「ごめんね」とメールが入ってくる。

どうしたことだろう…と、スヤスヤと寝息を立てて眠る千彩の頬をそっと撫ぜた。


「結婚したら変わる…ってか」


仕事が忙しいなりに寂しい思いをさせないように努力をしてきたつもりだし、何より十分に愛情を注いできたつもりでもいる。色々と考えてみても、これといった原因は思い当たらない。それが余計に晴人を不安にさせた。

それに、ここ一週間くらいの話なのだ。千彩が起きてこなくなったのは。それまでは毎日楽しそうにお弁当を作り、元気に見送ってくれていた。


「まぁ、ええか。他は普段と変わらんし」


それ以外は、これといって変化はない。帰る頃には洗濯も掃除も済んでいるし、晴人の仕事が遅くならない限りは二人で買い物に出掛けて夕食を作る。結婚前と何一つ変わらない日常だ。

ふぅっと大きく息を吐き出して、晴人はそっと額に口づけた。それに薄っすらと瞼を持ち上げた千彩が、グッとしかめっ面をする。

「おはよう。どないした?」
「はる…今日お休みして」
「ん?どないしてん、急に」
「ちさと一緒におって」

そっと伸ばされた手を取ると、今度は千彩がうっとえづき始めるではないか。具合が悪かったのか…と、ベッドに腰掛けてゆっくりと背中を上下に摩ってやる。

「大丈夫か?」
「気持ち悪い…」
「病院行こか」
「病院イヤ。はるとおりたい」

続けざまに何度かえづいた千彩が、苦しさに涙を零す。風邪でも引いたか?と思い額に手を当ててみるも、そんなに熱があるようには思えなかった。念のため体温計を挟ませてみても、微熱程度だった。

「どないしたんやろなぁ、急に」
「わからへん。朝起きたら気持ち悪い」
「いつから?ずっと我慢してたんか?」
「一週間…くらい前」
「はよ言うたら良かったのに」
「はる、心配すると思って…ごめんなさい」
「謝らんでもええ。今日は一緒におったるから。あんまり具合悪くなるようやったら病院行こうな?」
「うん。ありがとう」

そう言うと、千彩は再び眠ってしまった。ゆっくりと頭を撫でながら、頭の中で今日のスケジュールを確認する。

「ヤバ…昼から撮影あったわ」

午後一番で入っている撮影を思い出し、慌てて携帯を取りにリビングへと向かう。

取り敢えず所長の携帯を鳴らしてみたけれど、繋がる気配はなかった。かくなる上はメーシー様に…と、頼みの綱とも言えるメーシーの携帯を鳴らす。こういった時の場合、恵介はアテにならないのだ。

何度目かのコールの後に聞こえてきた声は目的の人物のものではなく、彼の最も愛する妻の声だった。

『Hello』
「おぉ、マリか。ごめんな、早くに」
『めいじならマナ連れて散歩に出てるわよ』
「散歩か…何時くらいに戻る?」
『もう戻って…あっ、戻って来たわ。待ってて』
「悪いな」

第二子を出産したばかりのマリの代わりに色々と子育てを手伝っているとは聞いていたけれど、毎朝そんなことをしているのだろうか…と、メーシーの愛妻家ぶりに電話口の晴人はほうっと感嘆の息を洩らす。

『ごめん、お待たせ』
「悪いな、朝の忙しい時間に」
『いや、別に構わないよ。それよりどうしたの?』
「ちぃがな、ちょっと調子悪いんやわ」
『あらら。どうしちゃった?姫』
「風邪でも引いたんやろかなぁ。朝からベッドでくたばってるわ。熱は微熱程度なんやけど、どうも吐き気が酷いみたいでな」
『ん?それって今朝だけ?』
「いや、ここ一週間くらい毎日らしい」

どうして気付いてやれなかったのだろう。と、晴人は自分を責める。

けれど、それ以上に見過ごしていることがあるのだ。
それに晴人はまだ気付いていない。

「ほんでな、今日午後から撮影入ってんやけど…日程ずらしてもらえるよう頼んでくれんやろか?」
『それは別に構わないけど…』

何か言いたげなメーシーが、言葉尻を濁す。珍しい…と、晴人は黙って次の言葉を待った。


『姫、妊娠してるんじゃない?産婦人科連れて行った方が良いよ。毎朝それで起き上がれないんだったら、悪阻が相当酷いんだと思う』


まさか!と、晴人はハッと息を呑んだ。そして、そういえば…と思い返す。

「うわ…全然気付かんかったわ。さすがメーシー」
『可哀相だから早く病院連れてってやんなよ』
「おぉ、そうする。ありがとな、メーシー」
『可愛い姫のことだからね。病院行ったらちゃんと報告しろよ?あっ、仕事のことは任せて』
「ありがと」

電話を切り、一つ深呼吸をしてベッドルームへと戻る。

驚きと嬉しさと、驚きと。そんな複雑な思いを抱きながら、蒼白い顔をして眠る千彩の頭をゆっくりと撫でる。

「はる…?」
「仕事休めるようにメーシーに頼んどいたから」
「ごめん…ね?」

ギュッと力無くTシャツの裾を掴まれ、申し訳なさで胸がいっぱいになる。

もし妊娠していたとするのならば、もう三ヶ月は近いと思う。いつもならば気にしている千彩の周期も、ここのところ急に立て込んだ仕事の忙しさにかまけて気にしていなかった。それは明らかに自分の落ち度だと思う。

「ごめんな、ちぃ」
「どうしたん?ちさが気持ち悪いの、はるのせいちゃうよ?」
「いや、俺のせいやわ」
「なんで?」

問い掛けたものの、再び吐き気に襲われた千彩がうっと黙り込む。空えづきというものが一番辛いのだ。飲み過ぎた翌日に襲って来る吐き気とよく似ている。

いや、そんなものと同じ扱いをしてはいけないけれど。

「大丈夫か?」
「うー。気持ち悪いよぉ、はるぅ」
「毎朝一人で頑張ってたんか。気付いてやれんでごめんな」
「だいじょ…うぅ…」

苦しさに耐え兼ねた千彩が、とうとう泣き始めた。ゆっくりと背中を上下に摩ってやりながら、晴人はいつもより数段優しい声音で千彩に言い聞かせる。


「ちょっと落ち着いたら病院行こか。ちぃのお腹ん中、赤ちゃんおるかもしれんから」


驚いた千彩の目が、大きく見開いた。零れていた涙は、ピタリと止まってしまう。

そんなに驚いたか…と、自分のことはすっかり棚に上げた晴人は、優しく千彩の頭を撫で、にっこりと微笑んだ。

「どした?」
「赤…ちゃん?」
「まだわからんけどな。メーシーがそうちゃうかって」

自分のお腹に手を当てながら、千彩は片手をベッドについてゆっくりと起き上がった。スリスリと下腹辺りを撫で、不思議そうに小さく首を傾げる。

「はるとちさの赤ちゃん?」
「それ以外に誰の子供やねん。俺の子ちゃう言われたらびっくりするわ」
「ちさ…ママになるん?」
「せやなー、ママやな」

随分と成長はしたのだけれど、皆して可愛がり過ぎたせいか千彩は未だに幼さを残したままで。少し母親になるのは早いかもしれないけれど、それは自分が補ってやれば良い。

嬉しそうに微笑む千彩を抱き締め、晴人は頬を緩ませた。
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