ソバカス隊長と暗闇の蜜蜂
 ライマー=トットは、今夜を誰よりも楽しみにしていた。

 昨夜は、結婚式で酔いつぶされてしまったために、朝まで爆睡してしまったからだ。

 今夜こそが、彼とノルディにとっての初めての夜になる──はずだった。

「トット大佐! トット大佐はおられますか!」

 その日の夕方。

 彼の家の扉が、そんな無粋な声と共に、物凄い勢いで叩かれなければ。

「トット大佐はお留守ですよ」

「あ……あなた?」

 ドンドンと叩かれる玄関の扉の前。

 うろんな瞳で居留守を使うライマーの後ろで、ノルディが驚いている。

 妻にひどい男だと思われるのは嫌だが、この扉を開けて放たれる言葉を聞くのはもっと嫌だった。

 はぁとため息をついて、しょうがなく彼が扉を開けると。

「休暇中申し訳ございません! トット大佐! 非常召集です! すぐに軍舎にお集まり下さい!」

 ビシッ、ビシッ、ビシッ!

 伝令の青年の一言一言が決まるごとに、ライマーの眉尻は下がっていった。

 こんな時間に非常召集なんかされたら、夜中過ぎにだって帰れるかどうか分からないではないか、と。

 しかし、一大事なのは間違いないようだ。

 私の方も、一大事なんだけどなあ。

 すぐに向かうと伝令を追い払い、はぁぁと深いため息をつきながら、ライマーは振り返った。

「ごめん、ノル。明日の朝までに、帰れるかどうか分からなくなった」

「わ……分かりました、お気をつけて」

 寂しげに微笑む妻を前に、あー行きたくないなあ、本当に、とライマーは足取り重く部屋へ戻って着替えを始める。

 どうせ隣国のスカポンタンだろ、聖地ブン獲って自分の領地にして、巡礼者から参拝料でも取りたいんだろ。

 ブチブチと不満を唇の中で垂れ流しながら、彼はかっちりと襟の詰まった軍服へと着替え終えた。妻との思い出の緑のマントも肩に留める。中佐から大佐に昇進はしたものの、同じ佐官であるため、まだその色は変わらないのだ。

「ちゃんと鍵をかけて、火の始末もよろしく……ああ、どうしてこうなったんだ……ノル、ごめんね」

 玄関で振り返り、見送りの妻をもう一度ぎゅうっと抱きしめた。

「大丈夫です、ちゃんと家は守りますから」

 大丈夫じゃないよ。私が大丈夫じゃないんだよ。私がノルと家を守りたいんだよ──心の中で、本音がだらだらと洩れ出る。

「行ってくるよ……はあ」

 往生際悪く、それでもライマーはようやくにして、玄関の扉の向こうへと足を踏み出したのだった。


 ※


「よぉ、新婚!」

「分かっているなら召集かけないでください、アダー上級大佐」

「何だぁ? 欲求不満みたいなツラして……って、まさか、お前!」

「昨日は、酔いつぶして、下さって、本当に、ありがとう、ございましたっ!」

「ぶわっはっはっはっは! こりゃ、たまらん!」

 軍舎に着く直前、外に出ていたのかアダーと合流したライマーは、ゲラゲラ笑われた挙句に、痛いほど背中をぶっ叩かれた。

 理不尽にもほどがある。

「早く終わらせて、早く帰して下さいよ」

「出立前にはちょっとだけ時間作ってやるから、その間に何とかしてこい」

「出立前!? 何ですか、その残酷な響きは! ああもう、あのアンポンタンが……」

 早足で軍舎の廊下を二人で歩きながら、言葉を交わす。

「お前さん連れていくと、敵さんは夜戦しかけてこないからな。楽でいいんだわ。さすが、蝙蝠(フレーダー)大佐。頼りにしてるぜ」

「私じゃなくて、ワルター中将閣下を連れていけば、なーんにもせずに帰っていきますよ……絶対」

「閣下ももう年なんだから、あんまり前線に引っ張り出すなよ」

 突き当たりの会議室の扉にアダーが手をかけて押し開けると。

「誰がもう年だって?」

 ズォォン。

 目の前で、熊(ベーア)中将閣下自らが、お出迎えして下さっていた。


 結局、二晩(ふたばん)軍舎に缶詰になった後、ライマーは午後にやっと一度解放された。明日の朝一番に、国境を守護する軍の指揮官として出立が決まったのだ。

 ほとんど寝ていない、目の下にベーアではない方のクマを常駐させた状態で、彼はフラフラと家へと帰り着いた。

 昨日、女性職員に「今日は帰れない」と伝達を頼んではいたが、彼の愛しい妻は大丈夫だろうか。

「ただいま」

 鍵を開け、ライマーはようやく我が家へ帰宅を成し遂げるのだった。

「え? あ、お、おかえりなさい!」

 遠くから、驚いた声が飛んでくる。

 ぱたぱたと足音は、二階から降りてきた。

 階段の手前辺りで遭遇し、ライマーはその身体を抱きとめる。

「ただいまー……まだ夕食の用意は始めてないよね?」

「はい、あ、急いで作りましょうか?」

 抱きしめた妻からは食べ物の匂いではなくて、お日様の匂いがしていた。

「いや、逆。ヴルストのサンドをもらってきたから、それを夕食にしよう。何にも作らなくていいよ」

 背が高くないというのも、たまには役に立つものだと、半分寝ぼけた頭でライマーは思った。

 こうしてぎゅっとしていると、彼女の顔がとても近いのだ。

「それとゴメン……明日からしばらく帰ってこれない。国境に行かなきゃいけなくなってね」

 近すぎて、彼女の瞼の震えさえ見えてしまう。

「ああ、ごめんごめんよ」

「いいえ、お仕事ですもの……謝らないで下さい、あなた」

『あなた』と、初めてどもらずに言えた彼女の表情は静かで、照れはなりをひそめてしまっていた。

 寂しいせいだとすぐに分かって、ライマーは胸を締め付けられる。

「いや、謝るよ、ノル。多分、いまから私が望むことを言ったら、きっとノルは困るから謝っておく」

 そんな彼女の額に自分の額をくっつけて、ライマーは年下の妻に甘えるように軽く額をこすりつけた。

「望むこと……あっ、はい。分かりました」

 はっと彼女は気づいたように、身をよじって彼の腕から逃れようとした。どこか、違う場所に用事があるようだ。

「あ、ノル……分かってない。ノルの考えている用事とは違うよ」

 それが何かは分からないが、確実に違うことだけは分かる。

 何故なら、ライマーの望みは、彼女がこの腕から逃れることではないのだから。

「え?」

 がっちりと身体を確保され、ノルディは不思議そうな声を出した。

「私の望みは、いまからノルと一緒に二階の寝室に行くこと。今日の私の体調だと、一回寝てしまったら明日の出立まで絶対目が覚めない自信がある。だから、寝てしまう前に、望みを叶えたい」

 んー、と額に唇をくっつけて、ライマーは彼女に愛を表した。

「……お休みになるんですか?」

 まるで理解出来ていない、不思議そうな黒い瞳。

「まだお休みになりませんよ。さあ、行こう」

 睡魔を無理やり玄関の方へと追いやりながら、ライマーは彼女の背を押して階段を昇らせる。

「でも……寝室?」

「うん、寝室」

「私も、ですか?」

「そう、ノルも」

 どんどん階段を押し上げられながら、戸惑い続けるノルディ。

 そして。

「え? え? え??」

「ごめんね、ノル。ムードが足りなくて」

「あ、明るいです、外……」

「うん、ごめん。蝙蝠(フレーダー)だって、たまには真昼に飛ぶみたいだよ」

「え? 蝙蝠(フレーダー)?」

「ううん、こっちの話……可愛いよ、ノル」

「あっ……」


 その後。

 幸福のてっぺんまで駆け上がったライマーは、ヴルストのサンドを食べる暇なく、翌朝まで爆睡したのだった。


 ※


 朝早く。

 ライマーが目を醒ました時には、既にノルディはベッドの中にはいなかった。

 支度を済ませて階下に下りると、朝食の準備はもう終わっていた。

「お、おはようございます」

 のどにひっかかった声を、一度咳払いで追い払って、ノルディがはにかみながら彼に声を投げかける。

「おはよう、ノル。よく眠れてすっきりしたよ」

 彼が近づくと、ちょっとだけびっくりした身体の動きを、けれどノルディは止めてくれる。

 おっかなびっくりではあるが、大人しくライマーに抱きしめられたのだ。

 早く起きられたので、時間は十分ある。

 朝食を食べて、妻との名残を惜しんでから、ライマーは家を出るつもりだった。

 そんな彼に、ノルディが皮袋を差し出す。

 あの、ヨーク山羊の皮だ。

「大きいのはお邪魔になると思って、小さいのを作りました。お守りに持って行って下さい」

 彼女の故郷の村にだけ伝わる、貴重な皮とその中身。

 それをノルディは、彼のために差し出すのだ。

「これは、ノルの大事なものだろう?」

「もしもの時の助けになると思って……あなたなら、きっと大事にしてくれるでしょうから」

 問いかけに、彼女はにこりと微笑む。

 もしかして、昨日『分かりました』と、彼の腕を逃れて取りに行こうとしていたのは、これだったのではないだろうか──そうライマーは思った。

 ああもう、可愛いなあ、うちの妻ときたら。

 悶絶しそうになりながら、ライマーは皮袋ではなく、それを握る彼女の手をぎゅっと握ってしまった。

「ありがとう、大事に預かるよ」

「あなたがこれを食べずに済むように、神殿にお祈りに行きます」

 夫婦間の清らかさに格差はあるものの、ライマーがそれに不満を覚えるはずなどなかった。

 時間ぎりぎりまでグズりつつ、ついに彼は妻と離れて戦地へと向かうのだった。


 ※


「諸君。私が本部隊の隊長となるライマー=トットだ。階級はちゅう……あれ? 大佐になったんだったかな?」

 ライマーは、スピーチは苦手である。

 舌はよく回るが、一般の兵士を前に気取った、もしくは威厳ある挨拶が出来ないからだ。

 既に、並び立つ兵士らに、どっと笑われている。

 その笑いの騒がしさがおさまるまで待って、彼は唇を再び開いた。

「諸君……私は新婚だ。早く家に帰りたい」

 また、笑われる。

「私と同じように、愛する女性が待っている者、いまはまだ待っていない者、どちらも分け隔てなく故郷へ帰すのが私の仕事だ」

 ライマーは、そばかすの顔を微かに苦笑させた。

 ぱらぱらと笑いかけた兵士たちが、次第にシンとなる。

「我々の国は、我々の手で守る。妻も、家族も、将来の家族も、だ。そんな当たり前の仕事を、我々は当たり前にこなしていこう……君たちの働きに、期待しているよ」

 盛大な拍手も、力強い雄たけびも、いつもライマーのスピーチの後は起きない。

 ただみな一度押し黙り、次に決意のまなざしを上げるのだ。

 そんな静かな戦いの始まりが、いつもライマーの側にはあるだけ。

 腰のベルトに縛り付けた、妻から預かった皮袋の中身が、ころりと転がる感触を味わいながら、彼は早く帰りたいものだとぼやいた。


『おかえりなさい、あなた』

『ただいま、ノル』

 そんな妄想で自分を慰めるライマーが、何の役にも立たない真昼の蝙蝠(フレーダー)に戻るためには──さっさとこの戦いに、ケリをつける以外なかった。



『終』

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