音匣マリア
悪夢に魘されそうだと胸焼けを起こしながらその日の仕事を終えた。


あの女はタクシーを呼んで、瀬名さんの家に送るよう運転手には言いつけて返した。そこまでしてやっただけでもありがたいと思えっつーの。


今日は忙しくていつもの時間に菜月に電話をかける暇すら無かったから、お休みメールだけは入れておいた。


今では菜月は電話も拒否はしないが、それでも一方的に喋っているのは俺の方で、菜月はただ相槌を打つに過ぎない。

メールを送っても返信が返ってくるのは、ごくたまに。

それだけの事を俺はしでかしたんだから、仕方ないんだ。



今は菜月の事と、それから来月始めのフレアバーテンの大会の事を考えよう。





次の日は昼過ぎには店に入り、大会の為に練習を始めた。

曲は4~5曲をパフォーマンスがしやすいようにアレンジして今朝のうちに作っておいた。


今度の大会ではオリジナルのカクテルを作るエキシビションカップだ。


指定されたリキュールを使って、さてどう見せ場を作るか…と、瓶をお手玉のように弄びながら思案していると店の扉がぎいっと開いた。




「すみません、まだ開店前でして……」

客が時間を間違えて来たのだろう、と愛想よく近づいて営業時間を口にした。次いで相手の顔を確認する。


そいつは客なんかじゃなかった。



色々あって存在を忘れていたが、あの馬鹿女の彼氏。


山影って奴だ。



「店開けるにはまだ早ぇよ。……何しに来た?」

剥き出しにした敵意をそのままそいつにぶつける。


「ここなら海野さんに会えるかと思って……。すみません、開店前に……」


そんな事はどうでもいい。


「誰に俺がここで働いてるって聞いたんだよ?」


大方情報源はあの馬鹿女だろうが、それでも一応は聞いてみた。


「瀬名さんです。この前、最後に瀬名さんに会った時に」

「だからって何しにここに来た?俺らはお前らとは無関係だろ」


俺と菜月がこうなった全ての元凶はお前らだろ!?ぶっちゃけもう関わってほしくねーんだけど。


「無関係…とは言えなくなったんじゃないですか?」


何が言いたいんだこの野郎。


「まさかあなたが瀬名さんの店で働いてるとは知りませんでした」


そりゃお前なんかに言う必要ないからな。


「真優の事であなたの彼女さんには前に忠告したんですが、真優は上手いことやったみたいですね。僕もあなたが瀬名さんと知り合いだと知っていれば……」


菜月に忠告?こいつがか?一体何を……。


「……お前、もしかして国道沿いのコーヒーショップで菜月と会ってたのって……」

「そうです、その時に彼女…菜月さんに真優の話をしていたんです。知ってたんですか?」


あの時、菜月は疚しいことをしていた訳じゃなかったんだ。


「瀬名さんと知り合いなら、あなたにも話しておきます。菜月さんには一度お話ししたんですが、その話は菜月さんからは聞いていないですか?」


菜月は何も言わなかった。



ただ、ネックレスに『自分を信じて』とメッセージを刻んだだけだ。


あの時菜月とこいつが会ってた理由すら知らないで、俺は嫉妬して菜月を傷つけた。


理由があるなら知りたい。


些細なことでも知っておきたい。



菜月の苦しみを軽くしてあげられるように……。









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