製菓男子。
「ふと、わかったんだよね、あのとき。俺のような勝手な理不尽を、チヅルちゃんに押しつけて責める人がほかにもいたんじゃないかって。それでも、チヅルちゃんはそんな攻撃するひとりである、俺の心を和らげようとお菓子を焼いてくれる。チヅルちゃんはたぶん、殴られたあとの俺の未来を見て、想像して、黒ごまビスケットを焼いてくれたんだよね。殴られてる、その未来を見たわけではなくてさ。“お菓子は人の心をほぐすんだよ”って俺を心配してくれて、その上怪我の手当てもしてくれてさ。そこで、やっと、気持ちの整理がついたんだよ。死んだ人には、なにもかも、聞けないんだなって、当たり前のことが」


でもやっぱり甘いなと塩谷さんはコーヒーを啜って、口の中を落ち着かせていた。


「俺はそういった経験があるから、言えることなんだけど、きっとツバサくんもさ、同じように思ってるんじゃないかな。チヅルちゃんが見た未来で、どんなに自分にとって都合のわるいことが起こっても、リコちゃんが万が一でも死んでしまったら、聞けないことがたくさんあるでしょ。俺は無理だったけど、彼にとってみたらそれを知りえたことは、ラッキーなんだと思う。きみにとったら月曜日に見ることは人の不幸かもしれないけれど、本人にしてみたら、大切な人が死んでしまう、それ以上の不幸はない。きみはやさしいから、そのことを知らなかった人が体験するだろう悲しみを、先回りして背負ってしまうんだね」


そこで話を一旦区切って、塩谷さんは定位置に戻った。
またオーブンに映る自分の顔を見ている。


(本当にそうなんでしょうか? わたしはそんなに、綺麗なものじゃない)


ぎゅっと膝の上で握ったタオルに、再び溢れ出した涙が吸い込まれていく。


「ポルボロンを食べてもらえないかな? 俺は月曜日のきみに助けられて、今の俺があるんだ。恩返しじゃないんだけど、チヅルちゃんに、幸せになってもらいたいって思って、このお菓子を作ってみたんだよ」


塩谷さんは手を伸ばしてわたしの頬に指を滑らせている。
その塩谷さんの瞳の奥では、目の前にいるわたしがわたしではなくて、まるで亡くなった恋人を慈しむような、そんな映像が流れているのだろう。
視線があわない。


(塩谷さんは自分の手で、亡くなった彼女さんを幸せにしたいと思っていたんじゃないかな。曖昧なまま逝ってしまったことで、そこから今も、抜け出せないでいるんだ)


塩谷さんの中で止まった時計が、月曜日のあの日に動き出したのかもしれない。
でもそれは、同じ一日を永遠に刻んでいるだけのような気がする。
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