あの日まではただの可愛い女《ひと》。
非リア充ってヤーツー。
――隆《りゅう》さんが静かだ…。絶対に翌日に待ち構えて、聞き出されると思ってたのに、すでに本日は金曜日の夕方…。一体、何を考えているんだろうか。

 桜はいやな予感を感じつつも、仕事を進めていた。
 アレほど部下の私生活含めて関知してくる上司が何もいってこない。しかも水曜日の夜は完全に隆的にはおいしい話題の匂いがしまくっているはずなのにである。
 そんなことをつらつらと考えつつも、帰国した坂野に今後の指示とレポートのまとめ方を指示し、自分が持っているプロジェクトの進捗を進めつつ、問題点を解決したり、ライセンス関連の問題点を知財の人間と確認を行う。
 着々と仕事をこなしていると、会議に出ていた隆が戻ってきた。

「桜、ちょっと来てくれ」

 局長室に向かう途中で声をかけられる。ついにキタか、と諦めてその後ろをついていった。扉を閉めて、隆が話すのを待つが珍しく言いよどんでいる。

「どうなさいました?」

 いらいらと、部屋を歩き回る隆に思わず声をかけるが、それでもしばらくどうやって話すか思い悩んでいるようであった。ありゃ、水曜の件じゃなくて、会議でまた無理難題を言われたのかなぁ。あんまりめんどくさい仕事じゃないといいなーとか、思っていた。

「…志岐の件だが」
「あ。そっちですか」

 あーん?と片眉を上げて隆が桜を見やった。
 やぶへびであったことに気がつき、桜はあわてた。

「あ。いえ。ドゾ」
「志岐の配属先がわかったというか、決まった」

 今度は桜が、隆の言い方に疑問を覚える。

「新規ビジネス開発局だ。つまりココ」
「――!?」
「一課増やして、アジア圏のビジネス案件もしっかりやれってことになった。アジアでの実績および知財関連の知識を踏まえて、志岐が新設課の課長だ」

 志岐が戻ってくるのは1ヶ月から2ヶ月先であることや、とりあえず準備に半年で、課といっても準備室のようなものだが、というような説明が桜の頭を素通りしていく。

「大丈夫か?」

 ふと、桜の意識が現実に向き合えたのは、その言葉でだった。
 あの5年前から、隆は何度も桜に『大丈夫か?』と問いかけてきた。
 そのたびに『心配しないでくださいよ』と言い続けてきたのは桜だ。
 そして今回の人事を受けたのは隆としても、ビジネスとしての必要性を判断してのことだということはよく理解できた。水曜日の夜の隆の発言の違和感の正体がやっとわかった。この人事の打診は来ていただのろう。ただ、あの段階では桜に話せなかっただけだ。隆なりに抵抗してくれていたのかもしれない。だが、会社というものは自分の派閥だけで固めて仕事できるような甘くない。桜自身も、そんな狭量な上司はごめんだとも思っている。

「もちろん。――大丈夫です」

 一緒の局となれば、隆も志岐を先日の夜のように、ばっさりと出て行けとは言えなくなる。しかも局長室室長補佐の自分と志岐の役職だと向こうの方が上となる。
 権限的に隆はある程度、桜に多めに割り振っているとはいえ、それも限界がある。
 同じ局内で、しかも全ての課の補佐と管理を勤める局長室となると、どうやっても志岐との接触は密になるしかない。
 しかも新設部門となれば特に、自分との接点は多いであろう。
 思わず手が震えそうになる。

「受け入れ準備などのご相談は、志岐さんと直接って言うことですか?」
「――ああ、頼んでいいか」
「もちろんです」

 隆は心配そうに桜を見つめたが、それ以上は言わない。
 今回の件に関して最終的にジャッジメントしたのは隆だ。よって、慰めの言葉をかけることさえ、自分に許さないだろう。そもそも、桜が大丈夫じゃないって答えたらその時点で、桜のことはある程度切り離してしまうような非情なところを持ち合わせている。桜は、馬鹿な人だなぁと思って唇だけに笑みを刷く。そんな上司だからこそ、桜はついていこうって思っているのに。

「そんな心配しないで下さいよ。もう5年もたつんですよ? 私だってバカじゃないですよ、隆さん」
「桜……」
「冷静に考えて会社としても今回の新設課に関しては適材適所ですよ。組織をひとつ新設するって言うのは、うちの局への評価の現われでもありますし。隆さんの下ということも含めて概ねメリットの多い、よい人事だとおもいますよ。志岐さん、有能ですし」

 だから、隆さんも決断したんでしょ?と言外に桜は匂わせた。

「出世レースのライバルってことになりますし、私も気合入れてがんばりますよ」
「ふ。おまえらしいっ」
「もちろん、我儘大魔王な上司の下で10年やってきてますから、無体無茶には慣れてます。そんじょそこらの根性じゃないですヨ」
「ぶはっ。我儘大魔王って俺のことかよっ」
「ええ。ほかに誰がいるんです? 私をちゃんと使い切ってくれるような人」
「お前の気持ちはわかった」
「お分かりいただけてよかったです。まぁこの貸しは、今度、思う存分、たっかいワイン飲ませてくださいね」
「上司に貸しかよっ」

 隆がクックックと笑ったのを機に桜は部屋を出ていこうとする。

「桜――」

 呼び止められて桜が振り向く。笑みのない顔で隆が桜を見つめていた。
 それで、隆が先ほどの茶化しにごまかされてはいないことを悟る。

「俺はお前が、鈴木桜という人間だと思ってる。女だとかアイコンではなく、一緒に仕事をしていく同志だから俺はここまで連れてきた。それは変わりがない」

 ――だから卑屈になるな。

 隆は小さく最後にそういった。
 桜は、それについては何も言わずに、一礼して部屋を出て行った。
 その時に、隆は桜の左足に違和感を感じて、桜の足元を見た。
 どう考えても桜自身が買うわけがないアクセサリーが揺れていた。
 突っ込むという行為が頭に浮かばないくらい驚いて、今閉まったばかりの扉を見つめる。

「『あ。そっちですか』、か」

 水曜日のことを考えると、普通なら志岐のことで頭いっぱいになってたはずだ。それが頭の中から消えているに近いことと、おとといまでは見たこともないアクセサリーを身につけていることを考えると、おのずと面白い図式が見えてくる。
 しかし、どう考えてもアンクレットを贈るなんて、所有欲以外の何ものでもないだろう。
 でもそれについてまったく気がつかない桜に笑いがもれた。
 ただ、隆が知る限り、桜の気持ちにそこまで入りこんだ男は初めてだ。

 ――週末の失態君、桜は手ごわいぞ。

 少しだけ口元が緩ませながら、隆は桜が無意識に心を寄せ始めている男にエールを送った。
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