あの日まではただの可愛い女《ひと》。
「おはようございます」

 そういってオフィスに入ったときに、松本が、あれ?と声を上げた。

「な、なんか変ですか?」

 まるでバーニーズニューヨークの店員かよっていうくらい隙のない格好を毎日してくる新規事業開発室のファッションリーダーの反応に思わずビビル。

「予定と…、いえ、普段と違う雰囲気なんで驚いただけですよ。そういう若干ゴージャス系もお似合いですね」

 あー、ならよかった、と少し安心して吐息をついて、デスクに座った。
 ちらりと、デスク越しに志岐の姿を捉えた。まったく昨日の夜のことなど微塵も感じさせない雰囲気に、今度はため息をついた。

 ――話、つけないといけないんだろうなぁ。

 答えが出ないわけではなく、彼が納得できるような回答を思いつかない。
 そこまで気を使わなくていいじゃん、とは思うが、あきらめてくれないだろうし、きっと理詰めで来る。自分が知っていた志岐という男はそういう男だ。
 彼は粘り強く、自分の意図した方向に何とか持ってこようとするのが得意だった。つまり簡単に言えばしつこい。味方にすると非常に楽なところはそういうところだ。理屈が通らないと通るまで議論を続ける。
 今の回答を組み立てられない状況では、志岐を納得させられないと頭を抱えた。
 そんなことより、ぶっちゃけ、出張から帰ってきたときの葵と、何をどういう風に話せばいいのかってことを集中して考えたいのに…。そういう考えをしたことに桜は少し戸惑った。

 ――いつの間に葵って私の中でこんなに優先順位が上がってたんだろう。

 本当に、強引で、自分をとんでもないところに連れて行ってしまいそうな人だけど、彼に甘えさせてもらっているおかげで、気持ちが楽になっているのは事実だ。
 今も彼のことを考えるだけで、少しだけ気持ちが暖かくなる。
 まだ、いろんなことを話すかどうかは、決められないけど、葵のことを考えるだけで、なんだかうれしい気持ちと、寂しい気持ちが混じって、自分の心を満たす。そういうことに気がついて、その気持ちがなんなのか名前をつけられないことにも戸惑う。
 ただ、桜は、いつの間にか楽になった気持ちで、メールの処理をはじめた。


「さ、く、ら」

 呼ばれてふっと顔を上げると、アキがデスクの横に立っていた。
 仕事に集中しすぎて、13時を過ぎているのに気がつかなかった。

「どしたの?」
「お昼食べに行かない? それとも会議とかあるの?」
「あ。いいね~。15時にミーティング一本入ってるけど、今日は作業用にほとんど空けてる日だからご飯食べれるよ」

 素直に財布と携帯を持って席を立った。
 このあと、その判断を非常に後悔することも知らずに。


 注文をして、席に落ち着いた瞬間にアキが言った。

「ねね。いつそんな服買ったのかなぁ?」

 あっ!と思ってアキをみると、ニコニコ笑ってはいるが、目が笑っていない。
 アキにはほぼ入社当時からワードローブを管理されており、毎週末に来週着るもののコーディネイトを写真で送りつけて、いまだに指導されている。なぜそこまで自分の着るものを管理したがるのか?とは思うが、アキのセンスや、桜が守るべきイメージがあると言い切って、そのイメージを彼女が作ってきたということで、頭が上がらない。
 しかも報告もなく予定と違うものを着てきてしまっては、アキも気分を害してしまったのであろう。

「ごめん、言うのわすれてた。昨日ちょっと、友達の家に泊まっちゃって…」

 それでこの服貸してもらったの!と説明をする。アキはにやりと笑って腕を組んでから桜に言った。

「ふーん。お泊りの準備もせずに泊まるような事態って、どういうこと?」
「あぎゃ」

 あああ。本題は服じゃなくてそっちであったか。
 桜はそう思って頭を抱えた。アキの趣味というかライフワークは情報集めである。
 あらゆる噂や、誰よりも正確な情報を握ることが彼女の生きがいであった。いち早く入社当時から、隆になついていたのは彼女の場合、情報収集の機会を増やすためであった。
 どうしよう。5年前のことは言いたくないけど、志岐に絡まれた話はするべきだろうか。自動的に葵のこともばれてしまう可能性はあるが。なんとなく、頑なに口をつぐんでいても結局、解決方法は見えないのかもしれない。

「アキ…。あのね」

 とりあえず、昨日志岐に告白らしきものをされたことを話した。
 当然、その後お説教されまくり、ちょっとだけ長めになった昼休みを終えて桜はオフィスに戻った。『もっと詳しく聞きだすからね! 明日か土日のどっかで飲みに行くわよ』と、アキは鮮やかな笑顔で桜に言った。久しぶりのお説教を聴かされるのは大変だったけど、でも、言ってよかった、アキが笑ってくれたと、素直にうれしく感じた。

 アキだって一緒にずっとやってきた同志だ。就職してからずっと一緒にやってきて、助けてもらったし、本当はとても強い人だということを思い出した。
 彼女にならきっと志岐のことを相談しても大丈夫と、桜は思った。
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