あの日まではただの可愛い女《ひと》。
あなたのものでさえない、あなた
 お互いの気持ちがストンと落ちて、一緒にいることが日常になった今でも、たまに思い出したように葵は桜に聞くことがある。

「あの時俺は、桜さんに何を言ったの?」

 そう聞かれるたびに桜は困ったように微笑《わら》う。
 微笑《わら》って、ごまかせるときもあるが、そうではないときの場合が多い。
 たいていは葵が焦れて、桜から無理やり答えを引き出そうとキスの雨を降らせて、そのまま、お互いに夢中になってしまって聞き出せない。
 この日も結局、葵は聞きだせず、快楽に堕とされた後あどけなく葵に手足をからませて眠る桜を見つめていた。

 お互いの仕事は相変わらず忙しい。特に桜のそれは激化の一途だ。
 それはそれで、慣れたもので、どうやればお互いの時間が取れるかなどのコツもわかってきたし、葵の家に桜がいることが多くなってきた。完全に一緒に暮らす日もそんなに遠くないだろう。
 でも、気持ちは確かにちゃんとあって、満たされているというのに、桜の心を掴んだ出来事がなんだかちょっとわからないということだけが不安だと、葵はどうしても感じてしまう。

「…ん」

 桜が身じろぎして、目を覚まして葵に体を摺り寄せてきた。

「葵、眠れ…ないの?」
「ちょっと目がさえちゃって」

 桜が葵の体に一層腕を回して抱き込んだ。

「一緒に眠って?」

 そうやって葵の髪に手を入れて軽く梳きながら、普段は、照れて絶対やってこないようなキスを桜から落とした。
 ああ、またごまかされるな、俺…と苦笑が漏れるが、チャンスは逃さずに、その唇を味わう。小さい白い手が髪の毛を優しく梳く感触が心地いい。そうやってこの日も、葵は桜の柔らかさに抱かれて眠りについた。
 桜は葵の寝顔を見つめながら微笑が浮かぶのをとめられなかった。

 ――あの時の葵からの言葉は私だけのもの。
 あの言葉をもらった瞬間を思い出せばいつでも勇気がわいてくる。
 今、となりで眠っているあなたの存在自体のように。

 そう思って、桜はあの時の葵の言葉を反芻する。

 『他人に迷惑かけない限りは自由に生きていいっていうのは普通のことだけどさ。
 迷惑かかっても許してくれる人がいるなら、それ含めて自由に生きればいいと思う。
 俺は別にサクラに迷惑かけられても許せるよ。
 だからまっすぐ生きればいいじゃない』

 あの最後の日、二人で話したときに、アオイにもらった言葉が、実は自分にとっての始まりであったことに、何度も何度もこれからも桜は気がついていくのだろう。

『大丈夫。私は私でいて大丈夫。だって葵がいるもの』



 そう思いながら、葵の腕の温かさに身を寄せて、桜は瞳を閉じた。



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