あの日まではただの可愛い女《ひと》。
「桜さん、朝ですよ~」

 桜がその声で目を開けると、葵が上から見下ろしていた。

「いったん、家に戻って支度するんでしょ?」
「う。おはよーごじゃいます…。ぁー。か、会社…いかなきゃ」

 桜は身を起こそうとして、ぎくりとした。
 葵は、テロンとして体の線がはっきり見えるセーターにジーンズという格好で、肩の稜線や、腕の筋肉のライン、厚みなどがはっきりと窺える。

 ――うわーっ。朝から、何っこの眼福はっっ!

 もう触れるなら触りたいっ。そんな気持ちを何とか隠そうとして桜は目を泳がせた。

「どうしましたか?」
「イエ。どうもしません。…き、昨日はどうもありがとね」
「悪いと思ってるなら、宿泊代を後ほど請求しますよ」

 明るく葵が言って、コーヒー入ってますよ、着替えたら来てくださいね、と言って寝室から出て行く。その後姿を見て、あーなんて前も後ろも好みの体つき…と桜は思ってしまった。ちゅかあの格好は凶悪でしょうよ、何かの復讐デスカ?とかとも思う。

 ――いや、でも、いかんだろうよ。年下男子とかっ。
 そもそも、大体あれは事故のようなもので、向こうからしたらこんなかわいげない女に付きまとわれてもね。夕べもあんなに震えてたからこんなことになっちゃったんだし。ちゃんと友達として振舞わなきゃ。

 あの夜からなんとなく、葵にはうまく普段の自分で接することが出来ないが、ちゃんと元に戻そう!
 そう、着替えを済ませながら、桜は決意を新たに固めた。

 ただ、葵にコーヒーを飲ませてもらい、家まで送るといわれて、なんとなく別れがたくて、好意に甘えた。でも、歩きながら夕べのことがなんとなく二人の前にぶら下がってるような気がして、なんとも会話が弾まない。だが、意外と葵の家と桜の家は近かったので、それほどお互い居心地の悪い思いはしなかった。

「あ。もうそこのマンションだから」

 ありがとう、といって手を振って立ち去ろうとして、葵に呼び止められる。

「どうかしたの?」
「出張土産渡しそびれてたなって思って」

 パンツのポケットから小さな袋を出して、桜に手渡した。

「気を使わなくていいのに。でもありがとう! なんだろ?」

 袋を開けるとアクセサリーと思しき物が入っている。天使の羽をかたどった彫金にピンク色のスワロフスキーのビジュー。

「ブレスレット?」
「アンクレットですよ。お守りみたいなもんでもあるけど、なんか左につけると右脳の働きを助けて、想像力が磨かれるんですって」
「ほほー」
「なるべく、ずっとつけてた方が効果があるらしいですよ」

 あー。よくみんなブレスレットで数珠みたいなのつけてるよね、ああいう感じなのかしら?とか思いつつ、桜はちょっと女子扱いされているみたいで面映かった。

「じゃ…」

 今度こそ、別れを告げようと立ち去ろうとして、手を振ろうとしたら、その手を引っつかまれて抱き寄せられる。

「桜さん、忘れてませんか?」
「……は?」

 宿泊代…と、葵が微笑みを浮かべて桜の唇を奪った。

「ん、んんぅ~~~」

 どんと、葵の胸を叩くも、びくともしない。
 最初は柔らかさを確かめるように、桜が息苦しくなって唇を緩めると、肉厚の舌が入り込んできて歯列を優しくなぞりあげて、ぞくりとした。角度を変えてキスの深さを深めてくる。濡れた音が桜の耳にも届いて、恥ずかしい。
 朝から公道でされるには、濃厚すぎるキス。まったく抵抗できなくて力が抜けそうになり、桜は葵にすがりついた。
 はふ、と唇が離れたときに思わず、息を吐いてボーっと葵を見つめた。
 葵のにやりとした、してやった顔を見て朱が上る。

「勝手に泊めたのはそっちでしょ!」

 キーっとなって、笑いが止まらない葵に背を向けて、よたよたとマンションの入り口へと向った。桜は真っ赤になりながら、オートロックをあけたときに、一度振り返り、まだニヤニヤと笑ってこっちを見ている葵にこぶしを振り上げて威嚇した。

「もうもうもうもうもう~~~。いっつもいっつもからかってっ!」

 部屋に帰って、出社の支度をしながら歯噛みをした。
 ただし、葵に対して負い目のようなものが消えていることには気がついていたが――。
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