花は花に。鳥は鳥に。
 母がこんなにはしゃいでいる姿を見るのは、もしかしたら初めてかも知れない。

 感慨深い思いがあって、母を見る。

 立ったり、座ったり、楽しそうな母を見ると、落ち込んでいた気分も救われる。

 母の人生に比べたら。わたしは甘えている。

「じゃ、先に入ってくるね。」

「ゆっくりしておいで、遙香。」

 母は座卓に据え付けられたポットから、急須にお湯を注いでいた。

「お茶も珈琲もぜんぶパックなのねぇ、なんだか味気ないわ。」

 そう言って、お茶碗にティーパックを一つ、沈めた。


 逆風に煽られることでもなければ、わたしはきっと気付かないままだった。

 母子家庭の苦労で、人に負けることを何より嫌ってきたけれど、負けるものかと思ってきたけれど。

 一番苦しかったのは、母なのだ。

 いつの間にか、自分ばかりになって、自分ばかりが辛いような気になっていた。

 母は、まるでおくびにも出さずに、いつも素知らぬ顔をしてわたしを許してくれていたんだ。


 予約の部屋はこじんまりとした和室が二つに、縁側と庭が付いていた。

 少々奮発して取った離れの部屋だ。

 ちっちゃな玄関があり、上がり口の先は襖で客室を隔てている。

 箱庭のような、四角く囲われた空間の奥に、湯船が隠れている。縁側の先に、脱衣所がある。

 オモチャのようなシャワーが目立たない位置に据え付けられていて、立って使うことは出来そうにない。

 きっと、湯船にゆったりと浸って、小さな庭園を楽しむ為の造りだ。


 家族風呂のなみなみとした湯には触れず、正座で、顔に叩きつけるシャワーの水流を受けていた。

 ようやく落ち着いた心が、また弱く、感傷的になっていく。

 泣きたい気分をどうにか鎮めようとした。

 こんな状態で出ていったら、また母に心労をかけることになる。

 わたしは、どうしてこんなにバカなんだろう。

 わたしが失ったちっぽけなものより、母に捨てさせた多くのものを思って、泣いた。


 大声で喚き散らしたい衝動を、これで何度堪えただろう。

 色んな方面へかけた迷惑を、出来れば間違いを犯す以前に気付きたかった。


「お母さん、上がったわよ。お先。」

 努めて、平静を装って。

「そう。じゃあ、次は母さんが入るわね。」

 いそいそとすれ違う母とわたしの間には、奇妙な空気が潜んでいた。

 にこやかな母と、にこやかなわたし。

 きっと母も同じように、わたしに言いたい事を呑みこんでいる。

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