短編集
お茶とレポートの合間に
「ねえ」

 手渡されたカップを何となく揺らしながら、私は彼に話しかけた。私が煎れた紅茶が、チャプンと音を立てる。

「んー?」

 彼は振り返らずに聞き返した。彼は今、パソコンが壊れたからと私のパソコンでレポートを書いていた。彼の指がキーボードの上を滑り、かちゃかちゃと不規則に音を立てている。彼だけが奏でる音楽が、こんなに綺麗なんだと初めて知った。

 その途切れない音色に聞き入ることに意識が向いて、声をかけたまま何も言ってないと気付く。まあ、このまま黙ったところで、彼は全く気にせずレポートを書くんだろう。私が彼に与えられる影響なんて、そんなものだ。

「生きてるって、何かな」
「……ん?」

 ぽつりと落とした言葉を、少し間が空いて聞き返される。相変わらず振り返らないままだけど、ちょっと音楽のリズムが悪くなった。それが嫌で、言葉でその間を埋める。

「私は、生きてるのかな? 死んでるのかな?」

 音楽が、止んだ。振り返った彼が、戸惑ったように瞬く。

「どしたの、らしくもない」
「そうでもないよ。私はいつもこう」

 ふうん。鼻を鳴らして、彼は立ち上がった。カップ片手に、テーブルの前で足を投げ出す私の隣に座る。自分のついでに煎れた紅茶に、ゆらりと波紋が生じた。

「何で急に、そんな事思ったの」
「いつも思ってるよ。ねえ、私って、どこにいるのかな」
「どこって、ここだろ」

 ここ、と言って、彼は私の座る場所を目で示した。

「俺の隣で、座ってる。俺もそれを見てるし、君もそれを分かってるだろ」
「君が見てるものなんて、私には分からない。それに、人の感覚って、電気で脳に伝わるんだよね」
「そうだよ」

 首を傾げて続きを促す彼に、私は訥々と言葉を紡ぐ。

「でも、脳でその電気信号がどうやって感覚となるのかとか、分かってないよね。もしかしたら勘違いかもしれない。私はここにいなくて、これはただの夢かもしれない」
「……ああ、レポート」

 彼がそう相槌を打つ。レポート書かなきゃ、という意味じゃない。彼のレポートの題材を例えに出したと、彼にも分かったのだ。

「うん、『胡蝶の夢』。あれも、蝶が夢見てるのか、人が蝶になった夢見てるのか、分からないんでしょ」
「そうだね」
「だったら、私も夢見てるのかもしれない」

 そう言うと、彼はくすりと笑った。

「頬でも抓ってみる?」
「夢にも、痛覚とかってはっきりあるよ」
「え、まじ? 俺はないよ。あってもぼんやりしてる」
「だから、分からないの」
「ああ、なるほどね」

 ようやく分かったと言わんばかりに、彼が頷く。さらりと髪が揺れて、カップの紅茶も同時に揺れる。それを横目に、私は紅茶を少し飲んだ。ちょっと苦い。でもこれも、幻覚かもしれないんだ。

「あと、私はこの世界に何も残せてないから」
「……また壮大な」

 面食らった顔で、彼が呟く。私は大真面目に続けた。
「夢なら何も残らないけど、現実には何か残る。誰かそんな事言ってたけど、私にはそれがない。私が何かをした、何かを感じた、というのは夢でもある。けれど、この世界で生きてるって証拠を、私は形に出来てない」
「だから、生きてるって思えない? 俺がここにいるのも、君が見てる夢?」
「そう」

 そっか。彼はそう呟いて、カップを口に運ぶ。だいぶ冷めただろう紅茶は、でもほとんど残ってなかったみたいで、彼は一口で飲み干してしまった。彼はずっと音楽を奏でてたはずなのに、いつ飲んだのだろう。ほら、やっぱり夢なんじゃないだろうか。

「面白い考え方だなあ。レポートネタ提供、ありがと」

 そう言って彼は立ち上がり、パソコンの前へと舞い戻った。直ぐに始まる、軽やかな音楽。その音色が、私の言葉に影響された様子は、無い。

「手伝ったわけじゃないよ。真面目な話だよ」

 ちょっとむっとして、いつもより強い口調で言う。すると音楽がぱたりと止んで、彼が振り返った。何だか面白そうな顔で、私の目を覗き込む。

「じゃあ、俺から質問」

 彼はそう言って、にっと笑った。心底楽しそうな笑顔に、眉をぎゅっと寄せる。何でそんなに楽しそうなんだろう。ちょっと腹が立って、ぶっきらぼうに聞き返す。

「何」

 彼は私の物言いを気にもせず、訊く。

「自分が、いつ、どうやって死ぬのか、想像出来る?」

 聞かれて、考えてみた。1番ありそうなのは、病気。でも、事故の可能性もある。災害に巻き込まれるかもしれないし、ひょっとしたら殺されるかもしれない。それが若いうちになのか、よぼよぼのおばあちゃんの時なのか。

 直ぐに考えることを諦めた。そんなの、分かるわけがないんだ。

「出来ない」
「じゃあ、1週間後、1年後、10年後の自分が何してるか、想像付く? 誰と一緒にいるか、どんな服を着ているか、思い付く?」
「無理だよ。私は神様じゃないもん」

 大体それは、1週間後、1年後、10年後の自分が決めることだ。今の私が決めることじゃないし、誰かに決められることでもない。

 そう告げると、彼は意味ありげに笑った。

「じゃあ、大丈夫だよ。君は生きてる」
「どうしてそう思うの?」

 不審げに聞き返すと、彼はぶらりと空のカップを振った。

「それは君が、自分の意思で生きようとしてるってこと。未来の君には着たい服があって、誰か一緒にいたい人が居て、やりたいことがある。今君は、その時君が死んでいるとは考えていない。人間が生きてるってのは、そういう事だよ」

 ふっと、今までずっと揺れていた紅茶が凪いだ。私はその紅茶を、彼の真似をして一口で飲み干した。


 ちょっと苦かったはずの紅茶は、どうしてか、少し甘く感じた。
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