溺れる月

月齢7 裕人

「遠町 雫」という、彼女に会ったのは、


今日が初めてじゃなかった。



前に一度、廊下の長椅子で見かけたことがあった。


水色のワンピースから、細く伸びた腕に


たくさんの切り傷があったのが印象的だった。


ああ、リストカットってやつだ。


テレビの特集で何度か見たことがあったけど、


実際に見るのは初めてだった。


真っ白い腕に赤茶色い線が何本もある。


手首から、肩まで。


古いのも、まだじゅくじゅくしていそうに新しい傷もあった。



「しずくちゃん。」


看護師にそう呼ばれて、それまで居眠りしていた彼女が目を開け、


診察室の中に入っていく。


その時に見えた、二の腕に刻まれた小さな三日月に釘付けになった。



リストカットをする女の子。


シズク。


その鮮烈なイメージは、僕のブラックボックスにしっかりメモリーされていた。




だから、病院の階段でうずくまっていた彼女を、


迷うことなくここまでおぶって来れたのだ。




 精神科の受付に着くと、あの時の看護師が慌てて出てきた。


「雫ちゃん!どうしたの!」


僕の肩から、看護師が二人掛かりで雫を抱え降ろすと、


一旦長椅子の上に寝かせ、頬を軽く叩いて、彼女の名前を呼ぶ。


「雫ちゃん」


その声で、彼女が目をつぶったまま、口を開いた。


「あのね。怖いの。怖いから切ったの。」


「あたし、もうすぐで十六歳になるでしょう? だから切ったの。」


そう言うと、彼女のつぶったままの目からたくさんの涙が零れ落ちた。


「いやだ~。もぅいやだよぉ~。」



「そう。もう大丈夫だからね。先生に、傷、縫ってもらおうね。」


看護師が手を握ると、安心したのか涙を拭う。


顔に柔らかいゼリーの様になった血液がくっついて、


固まっていく。


やがて、廊下の向こうからストレッチャーが運ばれてきて、


雫を連れていった。


「裕人君、ありがとうね。服、汚れちゃってごめんね。」


僕の首筋で固まった雫の血を、年配の看護師が拭いてくれる。


アルコールが、すっと僕の身体の温度で蒸発していく。


 
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