炎獄の娘

7・緑の瞳の貴公子

 周囲の人々がさわさわとささめくのをファルシスは感じた。

(そういえば、ルーン公殿下のお姿が先程から見えないと思っていましたわ)
(グリンサム公殿下はどこに……妃殿下はあちらにおられるが……)

 そんな言葉が交わされるのを聞いて、ファルシスは妹の無神経さに苛立ち、

「とにかく一旦休もう」

 と半ば強引にその手を引いた。一流の貴婦人、公女として恥じない教育を受けて、その立ち居振る舞いは美しく立派ではあるものの、妹は良く言ってあまりに無邪気、悪く言えば気を回す事が足りなさ過ぎる。確かにルーン公とグリンサム公が共に少しばかり席を外したからと言って、多くの者は深い意味を考えたり悪く思ったりはすまいが、グリンサム公の先程の様子からは、何者かの目を避け、父と話す事を知られるのを恐れる理由があったと明白に察せられる。それなのに、この世間知らずな妹ときたら、従兄とダンスをする事しか頭にないのだ! とにかくこれ以上目立たずに、父が戻ってくるのを待つしかないと思ったが、ユーリンダは頑固に言い張る。

「折角の素敵な夜だもの! 休むなんて勿体ないわ。お父さまが戻って来られて、帰ろうなんて言われたら嫌だし」
「そんなにすぐ帰る訳ないだろ。父上だって色々……」

 色々こなさねばならない礼儀や社交がある、と言おうとして、なのにそれをせずにここにいないのはどういう訳か、それを人々に思わせる流れになってしまうと考え直し、ファルシスは言葉を切った。代わりに効果的な台詞を思いついたのだ。

「だったら、一人でここにいて、他の誰かと踊っていればいい」
「えっ、ファル、私を置いて休みに行くつもりなの?!」
「嫌なら、一緒に来なさい。何か飲んで暫く休んでいれば、父上もアトラも戻ってくるだろう」

 アトラウスと最初に踊る事を決めているユーリンダである。兄がいなくなってしまうと、先に申し込んできた誰かと踊らなくてはならなくなる。それはどうしても嫌だった。

「……わかったわ。暫く隅っこにいるわ」

 ようやく、ユーリンダは『目立ちすぎてはいけない』という父の言葉を思い出したようで、渋々といった様子で頷いた。ファルシスは内心ほっとしながら、駄々っ子のような妹の手を引いた。人々は、二人の華麗なダンスが見られなくなる事と、まだユーリンダは他の誰かと踊るつもりはなさそうな様子である事に、声にならない溜息を洩らした。この場での保護者である兄に従って移動しようとしているユーリンダを呼び止めてダンスに誘う勇気のある公子はいない、と思われた。宮廷でもてはやされる若き貴公子たちが集まってきているとはいえ、ルーン公爵の嗣子であるファルシスより身分の高い者と言えば王族くらいで、王族にはユーリンダに執心するような年頃の未婚の男性はいない。妹を休ませたがっているファルシスに敢えて今逆らわずとも、暫く休憩すれば、今度こそは美しい姫は兄以外の貴公子の申し込みを受けるであろう……そんな風に周囲は思い、兄妹に道を空けようとした。



 が、その時。一人の公子が進み出た。

「姫君はまだお疲れではないご様子。ファルシス殿の代わりにわたしが姫のお相手をお務めさせて頂けないでしょうか」

 焦茶色の髪に緑の瞳。王妃と同じ色の組み合わせ。そして絶世の美女と湛えられる王妃とどこかしら似た、整った容貌を持っていた。素晴らしい仕立ての紫の繻子の胴着に真珠を嵌め込んだ留め金をつけて金鎖を垂らしたその衣装は豪奢でそしてまたこの男によく似合っており、まさに多くの婦女子が惚れ惚れとするような美男子であった。だが、この派手やかな貴公子が誰であるのか、一瞬で判る者は少なかった。思いがけない成り行きに人々はざわめいた。しかし、すぐに気付いた。かれの胸元に縫い込まれた狼の紋章に。
 うまく事が運びかけていた矢先の横槍に、ファルシスは苛立って男を見た。ユーリンダも同じ思いである。アトラウスより先に申し込んで来るなんて! だが、これまで宮廷で付き合った事がなかったとは言え、ファルシスは見るなり相手が誰なのかを知った。晩餐会の時にも姿を見た。

(バロック家の紋章……)

 宰相、王妃の祖父、王国の権力者、七公爵の筆頭、アロール・バロック。隆盛をきわめるバロック家……。

「ユーリンダ姫、そしてファルシス公子。ご挨拶が遅れました。わたしはバロック家の四男、ティラール・バロックです。いまは姫君の美しさの虜となった多くの男の一人に過ぎませんが、よろしければどうかお見知りおき願いたい」

 そう言って貴公子は優雅に挨拶した。
 ティラール・バロックの名は、よく知られている。四男とは言え、時の権力者の息子、高貴な生まれ。兄たちのように、身分の高い貴族の子息なら誰もがするように騎士の叙勲を受け、宮廷に出入りしていたなら、忽ち出世の糸口を掴めただろう。だが、この末息子は、そのような堅苦しさを嫌い、騎士ともならずに諸国を気ままに漫遊しているだけだと、専らの噂だったのである。バロック家の兄弟で一番の美男子で、あちらこちらに関係を結んだ女性がいるとの評判もあった。だが、ユーリンダ同様、七公の正妃の子で相応の年齢になっているにも関わらず、宮廷に姿を現したのは今回が初めてだったのである。

「ティラール殿……お名前はかねがね伺っておりました。私はファルシス・ルーン、これは妹のユーリンダです。こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します」

 ファルシスは動揺を隠しながら挨拶を返した。たしかティラールは自分より二つ程歳上の筈であった。一部には勘当されたのではないかという噂もあったが、ここにいる以上、父親が世間にその存在を認めさせる為に連れてきたのに間違いはないであろう。その言葉遣いも動作も洗練された優雅なもので、あちこちの女性からほうと溜息が洩れた。
 ティラールは真っ直ぐにユーリンダの黄金色の瞳を見つめた。

「ああ、かように美しい女性がこの世に存在しようとは……わたしは初めて知りました。まさにその立ち姿はルルアの娘が天からこの場に降り立ったとしか思えぬような神々しささえ感じます。どうか、兄上の次に踊る栄誉を、このしがない男にお与え下さい」

 そう言ってティラールはユーリンダの手に口づけた。
 ティラールは王妃の叔父である。王妃に特別なおべっかを使わずに他の娘を褒め称えても許される数少ない存在と言える。兎に角、一の権力者である宰相の息子からこれだけの賛辞を受け、謙った態度でダンスを申し込まれては、いかに同じ公爵家の姫といえどもまさか断る訳にもいくまい。またしても注目を集める美男美女……今度は兄妹ではない。これまでどこに隠れていたのかと思わせるような、華麗で高貴な貴公子と姫君の組み合わせである。……だが、ファルシスは、嫌な予感を覚えた。
 ユーリンダは作法通りに手に口づけをうけたものの、困惑顔ですぐにその手を引っ込めた。ちらりと助けを求めるように兄を見たが、兄は険しい顔で、当然これを受けるようにという合図を目で送ってくる。もしここにアルフォンスがいたら、いくら愛娘の希望を損ねる事になったとしても、うまくこの場をまとめただろう。だが、ファルシスは父ほどにはユーリンダへの強制力を持っていない。

「あの……大変有り難く、身に余るお言葉、光栄に存じます。ですけれど……、わたくし、気分がすぐれなくて、少し休みたいと思っていたところですの」


『アトラと踊るのはいいが、他家のご子息からの申し込みを断ったりしてはいけないよ』
『もちろん、それだってわかっているわ』


 これも事前に父にきちんと約束させられていた事であったが、今はここに父はいない。後で叱られたって構わないわ、とユーリンダは思った。それ程に、この華やかな夢のような夜にアトラウスと最初に踊る、という彼女の願いは、彼女にとっては大切なものであったのである。
 だが、そんな彼女の想いは常識を備えた者には理解出来るものではない。

「ユーリンダッ! 失礼だろう!」

 ファルシスは顔色を変えて妹を叱りつけた。こんな正式な誘いを受けて断る事は、相手の面子を丸潰しにするものである。ましてや、たった今までユーリンダははっきりと、「疲れてなどいない、踊っていたい」と周囲に聞こえるように言っていたのである。周囲はどよどよとざわめいた。しかしユーリンダは意に介さない。解っていると口では言っていたものの、彼女はアルマヴィラの狭い社交界しか知らない。そこでは、領主の愛娘である彼女は常に中心にいて、どんな我が儘も許された。国王や王族が自分より尊い身分なのだとは理解していたが、他の貴族の男は皆同じようなものだと思っている。宰相の息子に公衆の面前で恥をかかせる事がどんな事なのか、考えもしない。断った相手に対して申し訳ないという気はしたものの、宰相の息子ならば別に笑いものになる事もないだろうし、自分以外にも幾らでも相手はいるだろうと、その程度にしか考えなかったのだ。

「姫……お疲れでいらっしゃいましたか。それでは何かお飲み物をお持ちしましょう」

 皆が更に驚いた事には、この失礼な仕打ちに宰相の息子は気を悪くした風もなく、本当に気遣わしげな顔でそう話しかけてきたのである。気位の高い彼の兄たちでは、考えられない対応だ。普通ならば、むっとして不快感を露わにするところである。だが、この優しい申し出にも、ユーリンダは気乗りのしない風で、

「いえそんな……結構ですわ」

 と断ってしまった。ついてこないで欲しい、と口調と表情が物語っている。ファルシスは胃がきりきりと痛む思いだった。父になんと言えばいいのか。



 しかしその時、落ち着いた、聞き慣れた声が近くから届いた。

「ユーリンダ、失礼をしてはいけない。そんなにお行儀が悪いとお父上に叱られますよ」
「アトラ!」

 ぱあっとユーリンダの表情が明るくなる。穏やかな笑みを浮かべた黒髪の公子がいつの間にかすぐ傍に立っていた。
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