ホットケーキ
第二十章 『大沢くん』
呼び出しベルが7回か8回鳴ってダメかなと思うと、10回目に大沢くんは出た。

「もしもし?どうしたんですか?」
「うん。」
「湖山さん?」
「うん、あのさ、つきあえよ、ちょっとだけでいいからさ。」
「はいはい。いいっすよ。いま、どこです?」

よく考えてみたら、土曜日だし、久々の休みだったから、彼女と一緒だったんじゃないかという気もした。悪かったかな・・・。でももう呼び出しちゃったし。土曜日の新宿は混みすぎていて好きじゃない。でも、学生時代から慣れているせいなのか、どこかその喧騒が落ち着くような気もする。駅からは少し歩くが程ほどに混んでいて程ほどに空いている飲み屋は小洒落た郷土料理を出す店で以前大沢くんに教えてもらったところだった。気に入っているからよく二人で飲みに行く。

カウンターの端っこで先に一杯飲んでいた。玉砕記念にしこたま飲んでやる気だった。「本番」は終わったのだ。個展は明日、明後日まであるけれどもうやり切ったも同然だった。

「だっ・・・大丈夫っすか?」
大沢くんは走って来てくれたのだ、肩で息をしていた。
「うん。大丈夫」
大沢くんがどすんと小さな座面の高椅子に腰を下ろす。コートをぐるぐる巻いてカウンターの下のものいれに突っ込んで、ビール!と大声で叫んだ。あいよっ!カウンターの中から大きな声が答える。湖山は急に力が抜けて、カウンターの上に突っ伏してみた。カウンターの板が頬に冷たかった。

「湖山さん?大丈夫?何杯目ですか?」
「まだ2杯、3杯目か、な?」
「それじゃ、酔っ払うにはまだ早いんじゃないっすか?」
「うん、まあね。」

大沢くんは何も訊かない。湖山が今は何も言いたくないことを分かっているからだ。個展のこともそうだ。パネルを手伝ったり、フライヤーを配ったりしてくれたけれど、それ以上のことは彼は少しも口にしなかった。不思議な奴。いつも、湖山が欲しいときに手を貸してくれる、けれどけして出すぎたりしない。すごく微妙な距離感で傍にいる。

醤油豆。ジャコ天。ビール。何も言わない湖山。「うまい」とか「湖山さんもどうですか?」とか時折思い出すとテレビで見た薀蓄を小刻みに挟み込んで、今日はふざけた事も言わない。自分の話もしない。黙って、あるいは、心地よいくらいの明るさで、ただ、湖山の隣にいる。

いつになくピッチが早い湖山を時折心配そうに横目で見る。大沢くんはジョッキをぐいっと煽って、「おっし、湖山さん。飲みましょう!今夜は飲みましょう!」と表情と裏腹なことを言うと、店員に両手の人差し指でバッテンを作って見せた。

タクシーを湖山のマンションに乗り付けて、エレベーターを待つ。
「湖山さん、鍵、鍵」
だらしなく大沢くんの肩に腕をかけて、肩が目一杯上がっていた。引きずられるようにエレベーターに乗り込む。
あああ~~~!
すっきりした。
すっきりしたな~~~。
砕けたな~~~。
がっくりしたみたいな気持ち半分すっとした気持ち半分、泣きたいような、笑いたいような気持ちで、湖山は大沢くんの肩にぐっと乗っかった。

「オモイ、オモイ、オモイって!!」
大沢君が湖山を背負いなおすようにしてエレベーターを降りる。鍵を確認しながら、大沢くんは迷わずに湖山の部屋のドアを見つけた。

鍵を開ける。綺麗に片付いた玄関には湖山のサンダルが一足あるだけで他に何も無い。
「おい、おまえ!帰るな!傷心の先輩を一人にして心配じゃないのか?」
鍵を下駄箱の上に乗っけて「ちゃんと戸締りしてくださいよ!?」という大沢くんに、湖山は酔っ払い丸出しの口調で騒ぐ。仕方ないなあ、という顔をして大沢くんが湖山に言い聞かせるように
「寝ちゃったらいいんですよ。明日には元気になりますって。」
と肩を叩いたけれど、湖山は何も言わない。明日、元気になれるかどうかなんてどうでもいいんだ。今、誰かにいて欲しいと思っているだけだ。

「フラレタ」
湖山は俯いたまま白状する。大沢くんは何も言わない。
「菅生さんに」
湖山はそれも白状する。
「うん」
大沢くんが聞こえている、という様に返事をする。湖山は思う。ほら、全部分かってるんだ、と。熱帯魚の水槽のポンプの音が響いている。その音が静かさを教えている。大沢くんは意を決したように湖山の肩をもう一度抱えた。
「さ、行きましょ?寝ましょ?明日は会場、行くんですか?ほら、気をつけて・・・。」
大沢くんが靴を脱いで湖山を寝室に運ぶ。十分に注意して運んでいるのに、湖山はベッドの前に来るとどさりと倒れこんだ。大沢くんも急に力が抜けたようにベッドの上に腰を下ろして、ベッドに寝っ転がった湖山を揺らした。
「湖山さん、湖山さん、布団に入ってくださいよ、ねえ、風邪引きますよ?ねえ、湖山さん?」
湖山のからだの下に引かれた毛布を引っ張った時、大沢くんは湖山が寝息を立てているのを聞いた。


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