ボレロ - 第二楽章 -


「本当なの? もしや、どなたかいらっしゃるの? 知弘さん、おっしゃって」


「はぁ、まぁ……だけど、困ったな。ははっ」


「困ることなどありませんよ。嬉しいこと。

だからお住まいを新しくなさったのね。ねぇ、そうじゃありません?

もぉ、知弘さんったら、教えてくださってもいいじゃありませんか。

孝一郎さんはもうご存知かしら」


「義姉さんにはかなわないなぁ。

まだ、はっきり決めたことではないので、兄さんにも言ってませんよ。

はぁ、義姉さんの勢いに、つい口が滑ったじゃありませんか」


「では、もう少し詳しくお話してくださると嬉しいわ」



母の顔が好奇心にあふれ、私への小言も忘れ、興味の先は知弘さんへと向かっ

ている。

ですから、すぐにどうにかなるわけではありませんよ、と話の矛先をかわそう

とするが、母は負けじと問いかける。



「はっきりおっしゃらないということは、もしや外国の方かしら?」


「いえ、そうではありませんが……」


「では日本の方なのね。向こうでお知り合いになった、そうでしょう!」


「えぇ、まぁ、そんなところです。

互いに海外の暮らしが長いので、すぐというわけには……」


「では、いつかはこちらにお迎えになるおつもりなのね。 

これから知弘さんもいろんなお席にお出かけになるはずよ。

パーティーにもご一緒できますわね」


「うーん、まいったな」



心底困った顔になり、知弘さんは母の問いかけに言葉を詰まらせ、さすがに言

いすぎたと思ったのか、母も 「ごめんなさい」 と謝った。 



「嬉しくて、つい……先走ってしまって……

でもね、本当に嬉しいのよ。知弘さんが奥さまをお迎えして、家庭をもたれて、 

そんな日がくるのを、みなさん、どんなに……」


「いつかはそうなればと思っています。義姉さんには、本当に感謝してます」


この母にどこまで話をするのだろうかと成り行きをみていたが、そこは知弘さ

んのほうが一枚上手のようで、決心がついたら、まず一番先に義姉さんに報告

しますと、母が大喜びしそうなことを宣言しその場を逃れたのだった。


知弘さんの宣言に安心し目を潤ませた母は、今夜はぜひ食事をしていらしてね

と、無理に笑顔を浮かべてそそくさと部屋を出ていった。

はぁ……と知弘さんの深いため息が部屋に響いたが、振り向き私を見た顔には

いつもの微笑をたたえていた。



「さすがね。具体的なことは何も言わないのに、

おかあさまを納得させちゃったんだもの」


「さすがなものか、ひやひやだったよ」 


「ねぇ、向こうで知り合った方って……」


「珠貴、それ以上は聞かないでほしいな」


「ダメ?」


「うん、いまはね。いつか話すから」



わかったわ……そういって私の肩を軽く抱くと、夕方までには戻るからと言い

残し、知弘さんも出て行った。


誰もいなくなった部屋をあらためて見回した。

見知った部屋でありながら、まったく別の空間に立っているような感覚を覚

えた。

この部屋に知弘さんが戻ることはない、それだけははっきりとしている。

新たな将来へと踏み出したのだ。

窓から爽やかな風が流れて、ふわっと広がったレースが軽やかに舞っている。

見慣れた風景が変わっていく寂しさを感じながら、未知への期待も高まって

いた。


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