ボレロ - 第二楽章 -

6. cupo クーボ (憂鬱な)



残された二組のカップは、行儀の良い人が使ったものだった。

唇が触れたあとは綺麗にふき取られ、スプーンには一滴の雫もなくカップの

向こう側に品良く置かれている。

今しがた立ち去った母と娘の背中を思い出しながら、ようやく訪れた開放感に

大きく深呼吸をした。 



「私にもください」


「ベッドの前に吸うなんて珍しいね。それとも趣向を変えた?」


「冗談はやめて」



宗から受け取った一本に火をともし、口にしたあとゆるりと煙を漂わせた。

紫煙とともに体のこわばりがとれていく。

宗も浜尾さんの前では緊張していたようだ。

彼女たちを見送ると、沈むようにソファに座り込み煙草をとりだし立て続け

二本に火をつけた。

一本目はせわしなく吸っていたが、二本目は落ち着いてきたのか、煙の行方を

目で追いながらゆったりと足を組み替えている。


スクランブル交差点を渡ってくる私たちを見つめていたのは、浜尾さん親子

だった。



「旅行は? まだ北海道だと思ってた」


「今朝早く帰ってきました。留守中ご迷惑をおかけしました」


「みんなしっかりやってくれたよ」



副社長と秘書の会話は、どこか遠慮がちでぎこちなかった。

宗と真琴さんの話が交わされる横で、私は真琴さんの母親である浜尾さんから

丁寧な挨拶を受け、しっかりと見据えられた目から逃れることはできず、

日曜日の人のあふれる交差点の一角で場違いな堅苦しい自己紹介をはじめる

ことになった。

一通りの挨拶がすんだものの、それではこれで失礼します、といえるような

雰囲気ではなく、けれど、その場でそれ以上の立ち話は難しかった。



「ここではなんだな、どこかに落ち着こうか。と言っても……」



宗が私をちらっと振り向き、いいだろうか……と同意を求める。

私のわかるかわからないかの頷きに、宗の目がほんの少し和らいだ。 

『榊ホテル東京』 の俺の部屋に行こうか、ここからも近いから、と

彼女たちに提案し、日曜日の混雑した街中を4人で歩くことになった。

浜尾さん母娘の前を歩く私の背中は、二人の視線を浴びて必要以上に背筋が

伸びていた。





ソーサーを持つ手は、フニッシュングスクールの講師が務まるほど基本に

忠実で、彼女たちの隙のない身のこなしに、対面したこちらも指先にまで

神経をいきわたらせ粗相のないようにと振舞った。

ホテルに着く前に連絡をいれたためか、副支配人の狩野さんがルームサービス

のコーヒーを運んできた。

狩野さんによって置かれたコーヒーに、宗はクリームも入れることなくやや

乱暴に口に運んだのに対し、浜尾さんと真琴さんは、ソーサーを胸元に添え

優雅にカップを持っていた。



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