ボレロ - 第二楽章 -

9. intimo インティモ (心から)



車窓から入り込む空気は微かに秋の匂いを含み、夏の疲れを伴った体を心地

良くなでていく。 

見上げた空には薄く刷毛ではいたような雲が広がっていた。 

季節が変わるように、降りかかった災難も終わってほしいものだが、

事件発生からひと月がたとうとしているのに、その影は完全には消えては

いない。

ひとりのフリーカメラマンが、いまだに私のあとを追いかけていた。 


異臭事件で被害にあった浜尾君は、周辺が落ち着いたこともあり昨日から出社

している。

健康の心配はまったくないそうで、ひと月近くも休んでいたとは思えないほど

精力的に仕事をこなしていた。


”真琴” と呼びかけたことから、彼女のみならず、多方面に迷惑をかける

結果になってしまった。

私が以前婚約を解消した事実を知った記者連中は、その理由を探っていたが、

私が口を閉ざし続けたため ”真琴” と呼んだ女性が、婚約解消の原因では

ないかとの憶測に至ったようだ。

取材攻勢から守るために浜尾君を病院にとどめ、記者の出入りを封鎖すると、

彼らの関心は私の元婚約者へ向き、今度は三宅理美へ取材が殺到した。

いまは結婚して静かに暮らす理美を、騒動に巻き込んでしまったことが申し訳

なかった。 

私のことで三宅の家に迷惑がかかってしまったと心苦しく思っていたのだが、

それが思わぬ方向へ向かい、結果的に取材の鎮火になっていった。

 

「三宅会長の力は健在ですね」


「連中も、あの人に楯突いたら、あとあと困るってことを

思い知ったんじゃないか」



ようやく会社の前から取材陣が姿を消し、平常の風景が戻ってきた午後、

会合へと向かう車の中に誰もいないのをいいことに、平岡が騒ぎの顛末を

話題にしてきた。



「近衛宗一郎には、かなり前から付き合いのある恋人がいたそうですね。 

理美さんも可哀相でしたね、と三宅会長に聞いたリポーターを、

会長が怒鳴りつけたそうですよ。私の孫を侮辱するのかって」

 
「三宅会長の怒った顔が見えるようだ。

孫娘がなにより大事な人だから、元婚約者から裏切られて

婚約解消なんてことは、噂だけでも受け入れられないはずだ」


「さすがよくわかってますね。そのとおりだったみたいです。 

近衛君はそんな男じゃない、私が見込んだ男だ。

彼を侮辱するのは孫や私への侮辱と同じだ。 

以後、一切君たちに協力はしない。って……

そりゃぁ、すごい剣幕だったらしくて、

それから本当にマスコミに圧力をかけたんですから。怖い人だ」


「おかげで助かったよ。三宅会長の一言で、うるさい記者連中が一掃された」



理美と別れる理由を告げた夏の日、孫娘の心の内を知った三宅会長は、

申し訳ないと私に頭を下げながら、今後君が困ったことがあったら、どんな

ことでも必ず力になると約束しよう、と言ってくれた。

今回のことは、あのときの借りを返す意味もあったのではないか。

きっとそうなのだろうと、祖父の旧友だった人の顔を思い浮かべた。




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