Any time Any place
私の考え方がアメリカンなのは、もう一つ理由があります。
基本的に、私は英語で物事を考えます。
小説書くときは日本語で考えますけど、生活は英語ですね。
英語って、主語・動詞・目的語・所有語がはっきりしているじゃないですか?
日本語みたいに、主語がなくても意味が通じるということがない。
だから、誰がそー思うのか?誰のものなのか?何を目的にしているのか?ということをはっきりさせる傾向にある。
日本語を使っていても、その考え方が身についているので、小説の文に、主語がないと、不安になります。
それこそ、『私の片想い事情』は、一人称で書いているから、「私」が抜けていても、意味はしっかり通じるのに、違和感を感じてしまう(笑)
あっ、そーいう風に考えると、性格は異なっても、私の小説のキャラたちには、『私自身』が色濃く反映されているんですねー
おお、だから月森さやさんの小説が読みやすくて好きなんだ!
彼女の文は、かなりスッキリと表現されていて、どちらかというと論理的。
明確というのがピッタリ!
でも、憧れるのは、『ステキな文』『キレイな文』と称さるもの。
何ていうのでしょう、抽象的な言葉を使っているのに、ちゃんと主人公の気持ちやその情景が伝わってくる文章。
意外にプロの作家さんたちに、そういう風に感じたことがないんですよねー
多分、言葉が難しいからでしょうか?
それとも、私が読む本が、お堅いものやサスペンス・ホラーだからか?
恋愛小説は、エロいロマンス小説しか読みませんし。(嫌なんですよ、実体験をもとにしたよーな恋愛モノ読むの)
プロの作家さんたちは、引き込まれるし、泣くし、ページを捲らせる力はあるけど、文章自体に、感動を覚えたことがないなー。
一番好きなのは、三浦綾子さんですかね?
うーん、ちょっと違う。
ここで褒めると本人「恥ずかしいからやめて~」と言うかもしれませんが、ベリカフェでは、明紫さんですね。
彼女の文は、すーっと入ってくるんですよね。情景とか想いとか。
歌でも、言葉がすーっと入ってくる歌手と、全く入ってこない歌手といません?
そんな感じです。
キャラとはちょっと逸れましたが、でも、『文章』って、キャラの表現に必要不可欠な要素ですからね。