Doctor or Pianist
甲斐

知能

話は少し前後する。

甲斐芳明(かいよしあき)は1990年2月24日、両親とも公務員のごく平凡な横浜の家庭の三人目の子どもとして生まれたはずだった。
2学年下に妹が生まれ、そっちに家族の視線が注がれてもマイペースに、大好きな本とともに穏やかに暮らしていた。
ある日、4人兄弟が暮らすには狭いマンションから息抜きをするように姉に連れだされてきた隣の公園で、日光浴をする美しい大人の女性と赤ん坊のふたり連れに出会ったのはまだ芳明が3歳の時だった。
普段話しかけられて返事をするのも戸惑うほど会話を嫌がる芳明が、どうして自ら彼女に話しかけたのかは永遠に謎のままである。
彼女はにこやかに話を盛り上げ、連れの赤ん坊は彼の妹と同じ歳の息子であると語った。
ベビーカーで眠る男の子もまた、母親である彼女によく似て、見たこともない程可愛らしい子であった。
近所に友人がいないから遊びに来て、と彼女は言い、惹きつけられるように芳明は隣に建つ彼女たちの高級マンションに遊びに通った。
その部屋はまるで図書室だった。芳明にはわからない言語の本も多かったが、芳明はそこで本を読み漁った。
彼女は息子をとても愛していて、いつも一緒にいた。
言葉がようやく分かりかけたほどの子どもに綺麗な歩き方、仕草のマナー、テーブルマナーや料理の手順、物の片づけ方などをともに遊びながら根気よく機嫌よく教える彼女と素直な息子を、芳明は本を読みながらいつも見ていた。
そのうち、その子には父親がいないことに芳明は気付いたが、なにも尋ねなかった。
芳明が自分の何かが他の人と比べておかしいと気付いたのは、小学校に入ってすぐのことだった。学校の教科書には芳明が知らないことが何ひとつ載っていなかった。
母親はテストで100点ばかり取る芳明を褒めたが、学校の教師の態度は好意的ではなかった。
2年生になって間もなく、母親が学校に呼び出されて他の学校への転校を勧められた。
知能が高すぎるので相応の教育を受けさせた方がいいのではないかという話だ。
「芳明、うちは4人兄弟でお金がかかるから私立学校には行かせてあげられない。……芳明なら意味はわかるね?」
「はい」
「東京に公立で教育を研究している学校がある。そこはかなり高い水準の教育をしているけど、編入学試験を受けてみる? 受けに行ってみて、雰囲気が気に入らなかったら合格しても行くのをやめればいいんだから」
「受けてみます」
芳明は面接試験で図書館の蔵書量を面接官に訊いた。
ここでは小学生でも大学の図書館を使える、と聞いて芳明の気持ちは揺れた。
「ここでは大学や大学院、研究所がどう教育すればよりよいのか常に試しているので、よい教育を受けたいのであれば今の小学校よりうちの小学部をお勧めします」
「そのよりよい教育の成果はどうですか? 例えば、ここ出身の東大生は? 留学生は?」
「毎年、東大に行く人はいますよ。留学は大学から斡旋しています」
芳明にはすでになりたい職業があった。
そのためにはここがいいのかも知れない、と思わせる手ごたえが、面接試験にもペーパー試験にもあった。
文句のない試験結果が返って来て、再度母親に転校するか尋ねられた。
東京の学校で、寮に入るのだ。
家族とも離れるし、なにより彼女たちとも離れるのに、戸惑いはもちろんあった。
しかし、ずっと別れるわけではない。春休み、冬休み、GW、(夏休みは彼女たちは毎年海外旅行でいなかった)休みの日に帰ってくればいいのだ。
芳明は小学2年の夏に国立東京都海北教育研究大学…略して国都海に編入し、その寮、ロングレッグスハウスに入った。
初めは少しなじみにくかったが、気さくな同級生がいて仲の良い友人も出来た。
友人の中で似た名前があったので芳明はみんなに自分のことは姓で甲斐と呼ばせた。
個性を伸ばす教育の中で、少しづつ、甲斐は明るくなっていき、本来持っていたらしきリーダー性を発揮し始めた。
―――――――ただその後、彼女には数回しか会えなかったことは、もちろん誰も想像しえなかった。
彼女が遺した9歳の男の子は、引きとられる先々で不当な扱いを受け、甲斐はまるで彼を取り返す様に国都海に入学させた。
風変わりな母親の教育と暗い過去により少し大人びた彼は、同級生ではなく甲斐たち2つ上の上級生といつも一緒に行動した。
大学の図書館は洋書も豊富にあり、日本語を読みつくした甲斐は外国語にまで手を伸ばしていた。
また、寮にも学校にも外国語会話のクラブがあり、学ぼうと思えばいくらでも可能だった。
寮母がそんな甲斐に声をかけたのは中学部1年の夏の終わりだった。
「甲斐くん、担任の先生に聞いたんだけど、英語、勉強しなくてもいいくらいできるんだって?」
「……まさか、そんなに出来るわけないじゃないですか」
「でも日常会話は出来るって?」
「簡単な程度なら、多分……通じるんじゃないかと」
「頼まれてくれないかなあー」
甲斐は事情を尋ねた。
「は? 誘拐防止の迎え?」
「大学生はボランティアよりお金になるバイトの方がいいって言うのよ、やっぱり」
体力勝負のことに甲斐は自信がなかった。
「それは…私より高校生の方がいいのでは?」
「英語が話せる人でないと困るのよ、帰国子女で日本語がまだよく出来ないの」
「高校生くらいなら平気な気も……」
「それとね、日本語を教えてあげて欲しいんだなあ……甲斐くんなら充分教えられると思うし、同じ歳の方が仲良く出来ていいと思うし」
「わかりました。いつどこへ行けば?」
「平日16:30、渋谷駅の東横線乗り場。来ない日は前日にそう言ってくれる」
「…東横線乗り場の、どこです?」
「それだけよ。相手は目立つからすぐわかる。徒咲の濃緑と紫紺のブレザーを着た、キレイな眼の色をした双子、背は甲斐くんより少し小さいね」
甲斐は外国文化や考えの違いなど話が聞けるのを楽しみに、その相手の名を訊いた。
要するに、大学の研究医として迎えたハーバード卒の職員の息子だから雑に扱えないが、手に余っていて甲斐に世話係を押し付けたいのだろう。
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