惚れられても応えられねーんだよ

「おーい」

 遠くから誰かが呼ぶ声が聞こえた。

 声の主は見えないが、のんびりした若い男の声だ。

 目を開くことはできるが、身体が痺れて、すぐに顔を上げることは難しい。

 それでも、指を少しずつ動かしていると、

「ゲッ!おい!!」

 慌てた声を出し、ピチャピチャと水たまりを走ってくる音が聞え、最後にその水しぶきが首の後ろにかかった。

「おい!! おい!!」

 強引に抱きかかえ上げられ、温かな腕に触れる。高校生くらいか、白い半そでの制服が曇り空の中でも眩しい。

 更に顔を上げて顔を見た。金髪だ……。不良のくせに弱い者を放っておけない優しいタイプだろうか。

「おーい、夏輝(なつき)!!」 

 今度は大人の低い声がする。私はちらと声の方を見た。黒い傘を差したダークスーツの男性が近寄ってきている。もしかして、教師だろうか。

「何? どうした?」

 男性は素早く少年の隣にひざまづき、私に傘を差しかけてくれる。そして薄く開いた私の眼を確認してから、ナツキという名の少年に視線を戻した。

「どうしよ、先生。ここで倒れてた。目は開いてるけど動けねーみてぇ」

「そうだな……」

 男性がこちらを見ているのは分かったが、大人の常識的な判断が怖くて、顔をうまく作れない。

「救急車呼びましょうか?」

 男性に問いかけられる。

 私は薄く、首を振った。誰かに助けてもらうために、こんなところで死のうとしていたわけじゃない。

「…………」

「ねーちゃん、家どこ? 送ってってやるよ」

「…………」

 あまりにも自然な少年の温かな手に、抱きしめられていたいと思ってしまう。

「分かります?  自宅の住所」

 男性と目が合った。頭を打っていると思われているのかもしれない。

「この近くですか?」

 男性が再度尋ねてくれる。

「…………すぐ、そこ……」

 こんな所でバカみたいに寝そべって自殺しようとしていた自分を、今更になって悔やんでも仕方ない。

「ちょっと何―!?」 

 今度は女性の声が聞こえて、向こうから足元も気にせずセーラー服姿で走って来るのが見える。

「何で私1人おいてけぼりなのよー!」

「おいてけぼりじゃなくてよー。迷子のねーちゃんがいてよぉ」

 少年が簡単に説明してくれるが、迷子ではない。

 私はとっさに、

「家、近く……です……」

 と、口を開いた。

「えっ、どこ?」

 覗き込んでくれる少女の目も温かい。そう思った瞬間抱き上げられる。突然身体のバランスが崩れ、慌ててその白いシャツの肩にしがみついた。

「じゃ、夏輝はその子を送って行ってあげて。俺はみのり送ってくから」

 教師の指示にそれぞれ従い、私は夏輝という少年に抱えられることになった。最初は抱きかかえたまま傘を差そうとしていたが、どうしてもうまく差せず一旦しゃがんでバランスを取り直す。

 と思ったら何故かシャツを脱ぎ始めた。

「えっ!?」

 こんな公衆の面前で、しかも、雨が降っているのにどうしたことかと驚いていると、

「ほら」

と、傘代わりのつもりなのか、顔の上からびしょ濡れのシャツをかけてくれる。

「濡れてっけど。あ、傘持ってて。わりーけど」

 そんなことまでしてくれなくても、歩けないこともないのに。

 そう思ったが、何も言わないでおく。

 温かな腕や胸がとても気持ち良く、そのまま眠ってしまいたいくらいだったからだ。

「ねーちゃん、近くってどこ?」

 夏輝はまずそう聞いた。

「……東都ホテル……」

「え!? ホテル!? 家がホテルってホテル経営してんのかよ!?」

「ううん……。私、両親が死んじゃって。家売ったの。今どうしようか考え中」

「え!? ホテルに住んでるって意味?? ったって金かかんじゃん」

 両親が死んだというワードはあえて抜いたのか、反応はない。

「うん……だから、アパート探すんだけど、なかなか思うようにいかなくて」

「ふーん、なんか、色々あんだな」

 あんな所に倒れている時点で複雑なの丸わかりだろうが、深く考えなかったようだ。そういうところはまだ子供なのか。

「大丈夫? ごめん、重いかも」

 年はおそらく17くらいだろうが、体つきががっちりしているし大丈夫かなと思ったが、一応気遣っておく。

「軽い、軽い」

 言いながら少年は、ふわっとジャンプをして水たまりをよけて見せた。

「あ!! でもこんなびしょ濡れでホテル入れんのか!? 」

「入れないことはないけど、そだね……」

「ここ、俺んちだけど」

 言いながら小さなアパートの前で立ち止まる。

 一人暮らし用の学生アパートのようだ。

「一旦タオル取って来ようかな……そうかねーちゃん、服乾かしてからホテル帰る?」

「……」

 さすがに即答できなかった。学生とはいえ、今知り合ったばかりの男の1人暮らしの家にのこのこ上り込むなど、どんな理由があるにせよ、危険極まりない。

「俺も服着てねーし」

「あそっか……」

 こんな、天然そうな少年が、まさか鍵締めた途端襲いかかることもないだろう。それに襲われたって、たかがしれている。

 そう高をくくった私は、少年の目を見た。

「ごめんね。タオル、貸してくれる?」


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