涙の跡を辿りて
 ケセは歩き始める。
 硬い根雪と今降り始めたばかりの雪の音がケセの耳を楽しませる。
 本当は怖いと思わなくてはならないのだろう。そう、『普通の人間』なら。だが、ケセはシンシンリーが自分を傷つけることなど無いと信じていた。慢心していた訳ではない。侮っていた訳でもない。ただ、解るのだ。
 想いと想いは通い合う。
 シンシンリーはケセを愛していたし、ケセもシンシンリーを愛していた。
 だが、その日。
 それは全く、唐突な出来事だった。
 何が起きたのか、一瞬理解出来なかった。
 それ程突然な事。踵を返したところだった。
 歩き始めていたケセの身体がびくんと跳ね、大地に膝を着き、そしてそのまま倒れた。リュックサックが派手な音を立てたのも、ケセの耳には聞こえない。
 割れそうに頭が痛かった。
 頭の中で都の大聖堂の鐘が、一斉に鳴り響いているような錯覚。
 思わず閉じてしまった瞼の裏は血の色。
 目を開けなければならない。
 何が起きたのか、把握しなくては!!
 パニックに陥らないのは、ケセが物書きだからだ。この経験でさえ、何かのシーンに使えるのではないかと思ってしまうケセの物書き根性だった。
 何が起きた? 僕の身に何が起きた?
 頭の中の鐘楼はまだ響き続けており、ケセは気が遠くなりそうなのを精一杯堪える。涙が滲みそうだった。
「流石」
 突然、右上から少女の声が降ってきた。宙に浮いているのだろう。だが、人間が宙に浮かぶことなど出来る筈が無い。幻覚幻聴の類か?
 それに、『少女』?
 本当にそう呼んでも良いのだろうか?
 しゃらり。
 衣擦れの音がする。
 少女が、痙攣しながらも状況を見極めようとするケセに触れた。。
 その瞬間、消えた頭痛。
 自覚の無いまま、いつの間にか痙攣を起こしていたケセの身体はだらりと地面に投げ出された。
 ケセは必死で目を開ける。両腕で地面を押すようにして半身を起こし、そして瞬きする事を忘れた。
 白の雪嵐の中に君臨していた少女を漸く見る事叶ったのであるが、だが、しかし!
 少女は笑った。
 淫靡とも清楚とも取れる笑顔。
 それをケセは見た事があると思った。

 美しすぎる異形。

 純白の雪の髪は緩やかにうねり雪の上を引きずる。銀の睫毛は色がないのに鮮やかであった。雪の結晶をちりばめてあったからかも知れぬ。その睫毛が守るは緑の瞳。シンシンリーの雪解けの季節の色だ。その耳朶に青の宝玉を飾り、それ以外の装飾品は一切身につけず、白い姫袖のドレスを着ている。幼い、少女。
 しかしケセは本能的に悟る。この少女の見た目に騙されてはならない。
 赤い唇がにぃっと笑った。
「ほう、妾の面影、覚えておったか。流石は妾が愛し児(めぐしご)。愛い奴。そなたに聞いてみたくての、妾は少し、そなたの痛覚神経を弄ったのじゃ。許せ。しかし妾は、嘘や強がり、詭弁を聞きとうない。妾は、ただそなたに尋ねたい。十四年前の言葉、そなたが覚えておる筈も無いが、あえて聞こう。妾の申し出を断って、人の世に生き、そなた、幸せか?」
「し…あわ、せ?」
 ケセは思わず問い返す。
 少女が頷く。ケセの頤(おとがい)に指をかけ、持ち上げながら。
 白い雪が、はらはらはぁらり。自分と少女との間で踊る。
 ケセはその花弁のような雪を見て、笑った。
 見よ、世界はこんなにも美しい。
 そしてこの美しい世界で生きる事が出来て幸せだとケセは思った。
 琥珀の瞳で少女の瞳を見つめ返す。
 もう死んだ方が良いと思った幾つもの夜。
 嗚呼、そんな夜も確かにあった。
 それもまごう事なきケセの真実であったけれども。
 それでも僕は……!
「幸せ…だッ!!」
「その言葉に偽り無し」
 少女はケセの顎を解放する。その瞬間、雪の大地と接吻する羽目に陥ったケセを見やり、少女はからからと笑った。
「今度こそ、と、思ったのにのぅ。ならば妾は愛し児をふたり、共に失う事になるのか。口惜しや。ああ、そなたはもう何も考えるな。考えたところで思い出せはすまい。頭が痛くなるだけであろう。それより、眠るが良い。白の揺籃はそなたを傷つける事はない。総ては夢ぞ。そなたはシンシンリーで二度目の夢の始まりにたどり着いたのじゃ」


 そう、二度目の夢。
 シンシンリーの女王が贈る二度目の夢。
 だが、行き着く先は愛し児たちが決める事。
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