涙の跡を辿りて
 表面張力で零れる事をしなかった涙は、しかし、本を置いて立ちあがった瞬間に溢れた。
「ケセ……ケセ!」
 ケセがお爺さんになるまで生きていたい。だけれどもそれは無理なのだ。

 ケセは人間。

 ヒトカは精霊。

 そしてヒトカは人間にも女にもなれない。

 これ程何の発展性もない恋人同士は、世界中、何処を探してもいないのではないだろうか? 否、世界は広く、ヒトカの知る範囲での世界では、と、言う事だけれども。
「どうしたんだ? やっぱり、ロトに製本を頼んだら良かったな。こんなみっともないプレゼント、今まで誰かに贈った事ないもん。がっかりだよね?」
 ケセの腕の中でヒトカは首を振った。激しく振った。
「違ウ。違ウの。嬉しイの、ケセ……」
「嬉しい? あんなボロボロの絵本で良かったのかい? 変わった奴だな」
 ケセは抱き締める腕に力を込めると、ヒトカの不可思議な色の髪に顔を埋める。さらさらの髪は、やはり緑の匂いがした。
 洗髪剤も使わず、ただの水洗いなのにな。
 だが、良い匂いだ。
「ヒトカ、ずっと一緒だよ。僕は君を放さない。だからヒトカもずっと僕の傍にいて欲しい」
 それはまるで、求婚のようだった。
 以前にもヒトカはそのような言葉を言われた事があった。
 だが、その時とは何か違った。
 ケセの未来絵図の中には自分がいるのだ。
 そう、伴侶として。
 嬉しかった。嬉しくない筈があろうか!?
 だけれども、もうじき冬が来る。
 冬の終わりに招待状が届くであろう。
 シンシンリーの雪名残草。
 精霊の女王の言葉。
 無視を決め込めば、女王はいっその事と、大切なケセまで消し去ってしまうかもしれない。それだけの力が、有るのだ。
 ぱたむ、と、ヒトカは絵本を閉じた。
 テーブルの上にその本を置く。
 するとケセが唇を寄せてきた。ヒトカはそれに応える。
 ケセが皺くちゃの老人になってもヒトカはケセを愛し続けるだろう。もし、ああ、もし、自分の魂が生きる事を許されるのならば!
 精霊にとっての死とは、魂の消滅。
 ただ肉体が朽ち果てる事は、『眠り』と呼ばれる。その間、魂は四大の元素へと変わり、自由に世界を駆け巡るのだ。
 そして新たな肉体が再構成された時、魂は古い記憶を眠らせ、その身体に無垢なる存在として蘇る。
 もし、この魂さえ生き延びる事叶えば!
 ヒトカはケセを愛し続けることが出来る。
 それがヒトカの夢だった。
 だけれども、すぐにヒトカは今在るケセの事しか考えられなくなった。
 ケセの舌は執拗で、ヒトカが上げる吐息さえ、絡め取られてしまう。
 その熱さは、馴染んだものであり、未知なるものであった。
 何度身体を重ねても、お互いの総てを知り合うことが出来ないのは何故だろうとヒトカは不思議に想う。
 ケセは愛しいものの胸に手をやった。
 心臓が、激しく鼓動を生む。
 そのまま、服のボタンを外し始めた。
「ヤ……ダ、ケセ、ヒトカ、恥ずかしイ」
 明るい場所で露わにされるのは恥ずかしい事だがもう、慣れた。仕事柄不規則な生活を送っているケセには朝も昼も夜もなく、原稿の締切日と締切日の間に僅かに自分の時間が持てるだけである。
 でも、居間でなど……!
 太陽の光が差し込む場所で抱かれるのは慣れている。けれどもランプの下でなど……!
 イヤ、こんなのイヤダ。恥かしイ。
 不意に視界が反転し、気づけばヒトカはケセに組み敷かれていた。ケセはそのまま、ヒトカの体を愛撫し始める。
「愛しているよ、可愛いヒトカ」
 そう言って、ケセは笑う。
 ヒトカは真っ赤になった。文字通り耳まで、茹ったように。
 精霊の体の半分は魂で出来ている。だから求めていることが、そのまま体に出る。
 表面の心とは裏腹に、本音の心に反応してしまう身体。
 そして、精霊の身体は心に強く引きずり込まれる。
 では本当の自分は、ケセの身体を求めているのだろうか? ……恥ずかしい。だが違うとはいえない。自分の体は反応している。今すぐにでもケセを受け入れられそうだった。
「ヒトカ、今……何、考えている?」
 熱い息とともに吐き出された質問に、ヒトカも、窒息しそうなくらいの熱に身を任せながら、答える。
「ケセ……と、ヒトカ、の、コト」
「良い子だ」
 くつりと、ケセが笑う。長々しい秋の夜。
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