涙の跡を辿りて
 ケセは笑顔が引きつるのを感じた。
 エイシア! あの豚!!
「身を固める頃合である事は十分に承知しておりますよ。相手もいます。ヒトカというのです。では。ああ、祝福の言葉など結構です。私はもうお暇致しましょう」
 すぅっと、ケセは立ち上がった。
 ヒトカは興奮に顔を紅くしている。
 身を固める相手と、ケセがルービックに断言してくれた事がヒトカには嬉しかった。
 ヒトカはケセの袖を掴みながら立ち上がると、ルービックに舌を出してみせた。
 そのまま、ルービック邸を出て、ふたりは大笑いした。
「見たか!? ルービックのあの表情!!」
「かもニ逃げられタって顔、してタ!!」
 二人は容赦なく笑う。それを通りがかる人々は奇異に思いながら見ていた。
 何故、ケセは一人で笑っているのだろう?
 日頃の不信心さが祟ったか? 精霊達の呪いに犯されたか?
 クーセル村の人間は、皆、恐れていた。
 ケセ自体は気付いていなかったが、クーセル村の人間はケセそのものを恐れていたのだ。
 その理由は十四年前に遡る。ケセが記憶をなくした歳だ。
 だが、人々にはケセを害する力はなかった。恥知らずのルービックは笑い話にしかしなかったが、村人達はケセに特別の加護がある事を信じていたのだ。
 ケセは普通の子供にしか過ぎなかったのに。
 尤も、それはケセ自身がそう望んでの事であったけれども。
 ケセは一通り笑うとパブに寄った。郵便物を受け取り、それらに目を通す間、いつもカウンター席に座るケセは、今日は二人掛けのテーブル席に着いた。それだけでもおかしな事だったのに、更に悪いことが重なった。
 ケセが注文した料理がテーブルに運ばれて、ケセがフォークを握りながら郵便物を読んでいると、皿が動くのである。
 人々は最初、ただの冗談のように思った。
 皿が勝手に動くことなどあってたまるものか!
 それは自然の摂理からも外れていたし、クーセル村の人間の常識とも外れていた。
 その時、主人の姪っ子が言ったのである。
「何でみんな不思議がるの? あそこに髪の毛の長いキレイな人、座っているじゃない」
 人々は絶句した。
 その姪っ子が嘘を吐いていると一人が言い、姪っ子命の主人に店から叩き出されて、しかし、ケセは気にも留めない。
 主人が己の姪の為に暴力行為に走る事はよくある事だったのである。だからケセは、人々が自分を……否、自分達を噂にしているとは考えもつかなかった。
 作家にあるまじき、観察力の低さである。
 しかし、その時、ケセの頭の中は自分の童話がエヴァンジェリン大賞という、童話作家であるなら誰しも目指す高みに、最年少でノミネートされたという記事に夢中だった。
 主人は姪のユージェニーに問うた。
「ケセと一緒に座っている人はどんな人なんだ?」
 ユージェニーは考え込むようにヒトカを観察した。その時、ふと振り返ったヒトカと視線がかち合う。
 ヒトカは笑って見せた。
 ユージェニーの幼い心には、たちまちのうちにその精霊が刻み付けられる。
「キレイな、キレイなヒトよ? 髪の毛が長くて、でも皆みたいに結い上げてないわ。髪が黒っぽくて、でも黒じゃなくて、ああ!」
 ユージェニーは小さい拳を握り締めた。
「若いのか? 年寄りなのか?」
 その問いには簡単に答える事が出来た。
「まだ少女よ」
「女なのか?」
「だって髪が長いもん」
 そういうとユージェニーは林檎をカウンターから一つ取った。
 店中の視線がユージェニーとケセのテーブルに集中する。
 見られる事に慣れているケセは、その視線に含まれた、『いつもと違うモノ』には気付かない。
 ヒトカは、こんなに沢山の人がいるところへ来るのが初めてだったのでそれだけで緊張してしまう。だけれども、テーブルの皿を動かし続ける。ウィンナーをフォークがつきさしたら次は鳥のあぶり焼きというように。
 そのヒトカの袖を、ユージェニーは引っ張った。ヒトカは幼い淑女を見やる。ユージェニーは真っ赤になりながら林檎を差し出した。
「コレ、ヒトカに? 有難ウ」
 ヒトカは笑った。
 店内を、完璧なる静寂が包んだ。
 林檎は持ち上げられると、消えてしまったのである!
 これが奇蹟でなくて何を奇蹟といおう?
 パブにいた何人かの男達は村長宅に急いだ。
 ケセは漸く郵便物総てに目を通すと、急ぎで返事が必要なものだけ返事を書き(と、言ってもニ~三行のメモのような返事であったが)主人に郵送を頼むと、パブを後にした。
 パブにまともな音が戻ったのはそれからの事である。
 だが、しかし。
「叔父さん」
 ユージェニーがケセ達のテーブルを指差した。
 そこには、しなびた林檎があった。
 ユージェニーが触れるとそれはさらさらとした砂のような物体に姿を変えたのである。
「今日は俺の奢りだ。みんな、好きなだけ飲んでくれ!」
 店の主人は叫んだ。
 怪異は酒で紛らわしてしまうに限る。
 奢りという言葉にも人々はいつも程の歓声を上げなかった。
 その日は皆、静かに酒を嗜んだ。
< 22 / 55 >

この作品をシェア

pagetop