涙の跡を辿りて
ヒトカの章4・足掻く子供達
 ヒトカは聖地に立ち入るなり感嘆の溜息を洩らした。谷底から漂う甘美なる香りに。
 薔薇が。
 恐らく何万という薔薇に埋められた場所。
 その芳香は少しばかりヒトカとミリエルを酔わせた。
 花の香りで酔っぱらってしまうなど、人間であれば比喩にしか過ぎないであろう。
 だが、酒を飲んでも酔う事のない精霊と巫女は、間違いなく酔っていた。
 赤、ピンク、オレンジ、黄色、白、そしてある筈は無いとされている青の薔薇までもが此処にはあった。それだけではない。その色彩は、また一本一本違っており、決して同じ薔薇は無いように見える。
 精霊の女王が薔薇を愛でる事はよく知られている事実である。
 だが、この谷底には世界中全ての薔薇が集まっているように見えた。
 美しい薔薇だけではない。小さく不細工な、恐らくは野生の薔薇であろう物も沢山混じっている。
 そして、自分以外の精霊の気配を感じない、不可思議な場所。流石聖域である、と、ヒトカはのんびりとそう思った。
 嘶く声が聞こえる。その声にこの空間が閉じたのを、ヒトカは感じた。そして慌てる。
「ミリエル! 閉じ込められちゃったよ!?」
 悲鳴のような声を上げる幼い精霊に、ミリエルは鼻でふんと笑った。
「邪なるモノや偶然通りかかったモノが此処に立ち入ってはまずいだろう? ここは女王様の聖域なのだから。お前は本当に考えなしだね。帰る時にはまた別の道が開くのさ。今度は始祖の王者に確かめられる事はない。私の時は開いた空間を通ればすぐに自分の寝室だった」
 ふぅん、と、納得する幼い精霊に抱き抱えられた老婆は、しかし、ヒトカがもし目標を達した時、即ち自分の指輪が指に嵌められたらと、その先の事を考えると恐ろしかった。
 無邪気な子供のヒトカは、まだ知らない事。だけれども、ミリエルは、ヒトカの前にどんな困難が待ちうけているか知っている。
 諦めておしまいよ。
 そう言ってやりたい。
 だが、もう遅い。ヒトカに毒でももって二年間、寝台に縛り付けてやれば良かったと老婆は真剣に考えた。
 そうすれば、何の苦労もなく、ヒトカは恋人の腕の中に戻れたであろうに。
 勿論、そうなればクーセル村は助からないが、ミリエルには構わなかった。
 故郷というには余りに辛い場所であった。ミリエルは祭壇の羊のように捧げられた存在であったから。
《ヒトカ、下ろしておくれ》
 ヒトカはミリエルを大地にそっと座らせた。
《有難う、ヒトカ》
《礼を言わなくてはならないのは僕です。有難うございました。ミリエル。女王の巫女。貴女がいなければ此処まで来られなかった》
 ぺこり、と、ヒトカは巫女に頭を下げた。
 ヒトカは心から感謝していた。ミリエルに。
《礼を言うのは女王様の出した課題を片付けてからにおし。これを持ってお行き》
 ミリエルはうなじに手を当てるとぱちんと音をさせて、一つの首飾りを出した。服の下に隠されていた一粒真珠の首飾り。
《これは先代の巫女、スーシャ様から頂いた首飾りだよ。巫女が代々受け継いできたものだ。あんたを守ってくれるだろう》
 ヒトカは吃驚した。
《そんな貴重なもの、頂けません!!》
 ミリエルは苦笑した。
 本当に可愛くて、どうしようもない幼子であることよ。女王の寵を受けたのも解る。
《誰が『くれてやる』などと言った? お前さんは必ず役目を果たして私にそれを返すんだよ。私が次の巫女に渡せるようにね。だから急ぎなさい。聖地では所謂三大欲求からは無縁でいられる。排泄もなしだ。だが、時が止まる訳ではない。髪も爪も伸びる。時間は沢山あるんだ。ゆっくり探しな。そうそう、指輪の台の裏にはこう彫ってある。『最愛なるミリエルに永遠に真の心をつくさんとす。ダイ・ルービック』、笑えるだろう?》
《ルービックには夫人が……では》
《永遠に! 本当に笑っちまったよ。私が巫女になって半年で子供を孕ませて結婚式を行ったのだからねぇ!!》
 本当に誠意の無い男だ、と、ヒトカは思った。あの男だけは白の揺籃の中で永遠に、そう『永遠に』眠り続ければ良いのに。そうすると、輪廻の輪にも加われまい。だが、ルービックには重すぎる罰であるとは、ヒトカには思えない。
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