涙の跡を辿りて
 性的な快感ではない。だが、それと比べても遜色の無い快感。
 ヒトカは恍惚として、その場を動けなくなる。快楽に身を委ね、惚けてしまう。
 それがこの谷の罠であった。
 女王は死の穢れを嫌う。
 聖地に血を流す事を嫌う。
 だから茨にまみれたヒトカの身体からは一滴の血も出ない。血が体外に出る前に棘がそれを吸うのだ。
 ヒトカの脳裏には夢が描かれる。夢を見ない筈の精霊が夢を見る。
 ディオヴィカだから可能な事。
 そうして、幸せな夢の中をたゆとい、本来の目的を忘れ、夢の中に遊ぶように。そうしてそのまま植物の栄養になり、緑に囚われし者は、花を咲かせる。美しい薔薇の花を。
 ヒトカの見た夢も優しかった。
 それはケセの腕の中で抱き締められている夢だ。いつも温かい腕。でも手の先は冷たい。冷え性なのだ。だからヒトカがその手を取って吐息でもって温めてやらねばならない。
 何か忘れているような気がする。
 とてもとても大切な事。
 でも、ケセの手はまだ冷たい。この手が温かくなるまで、何処にもいけない。いけないのだ。
「あったかい」
 ケセが美しい琥珀の瞳を細めて、ヒトカに笑いかけた。
 ああ、そんな事でケセ、喜んでくれるの? それなら何度だって温めてあげるから。

 何処にも行かないで。

 そう思った瞬間、ヒトカは泣いていた。
 何処にも行かないで何処にも何処にも行かないで。行くときはヒトカを連れて行って。
「どうしたんだい? ヒトカ?」
 ケセが心配そうにヒトカに声をかける。
 涙に濡れた真珠とその鎖が熱い!
 何だというのだ!? この熱は!!
 ヒトカはケセから手を離すと、首筋に手をやった。
 何が一体? これは何だ?
 それは先程、ミリエルから貸し与えられた真珠の首飾りだった。しかし、夢に惚けているヒトカはその事を覚えていない。
 ──起きて!!──
 誰かが叫んだ。
 起きる? 自分は眠ってなどいない。そう答えたいが何故だか答えられない。
 ──貴方には愛する人がいるのでしょう? その為の涙でしょう? ならば、眠っては駄目よ!──
 首にぶら下がる真珠が熱い。鎖も、何もかもが熱い。ヒトカは留め金を探していたのだが、見つからなかった。思わず、心のままに引き千切ろうと試みる。
 真珠を掴んだ。
 その刹那──!!

「貴方を愛しているわ! 本当よ!! 信じて!! 私を連れて逃げて頂戴!! 巫女になんてなりたくないわ。貴方は私の純潔を破ってくれるだけで良いの、お願いよ!!」
 泣きじゃくる女の声はヒトカに囁きかけた女の声だった。脳裏に浮かぶのは、その姿も仕草も、とても美しい金髪の乙女。
 訴えかけられた男は、黒髪に黒い瞳の、美青年だった。鼻筋が通っており、目元涼しく、誰が見ても美男だと思えるような。
 二人は似合いの恋人同士だった。
「解っているのか? シンシンリーの掟は人間が定めたものではない。精霊たちの法だ。人の身で如何にして破れようか?」
「精霊が怖いの!? 私を失う恐怖より、精霊達が怖いのね。貴方は永遠を誓ってくれたじゃないの。誓いを破るより、精霊達が怖いのね。解ったわ。もう解った、頼まない!!」
 女は踵を返し、走り去った。男が追いかけてくれるのを望みながら。同時にそんな事が起こり得ない事も十全に承知しておりながら。
 そして女は巫女になる。
 もう泣かなかった。男への未練は断ち切れた、そう思ったから。
 ところが、女が巫女になってから男は女を追ったのだ。
 眠っているときも起きている時も女の面影に支配され、男は半分狂っていた。
 狂人の心には、女に会いたいというそれしかなかった。何の穢れもなかった。
 故にシンシンリーの結界を越えたのだ。
 その時、トウヤはまだ此処にはいなかった。
 『凪の地』もまた存在しなかった。
 男はディオヴィカの聖地にまで立ち入り、女の名を呼び続けた。
 巫女となった女は、答えなかった。
 諦めて、村に戻ってくれるよう、祈る事しか出来なかった。
 そして男は、谷の下の薔薇園に足を滑らせたのだ!
「ケティー──!!」
 男は女の名を呼んだあと、意識を手放し、そのまま崖下に転落して、沢山の薔薇を真紅に染めた。
 巫女、ケティはどうする事も出来ず、ただひたすら泣いた。狂うまで自分を愛してくれた男の為に真珠を濡らした。
 もし、自分が男の胸に飛び込んでいればどうなっていたか? 考えずにはいられなかったが、だが、しかし。
 幾ら考えても既に巫女であるケティには選べない選択だった。
 そしてケティが五十年の役目を終え、ディオヴィカに一つだけ願う事を許された時、彼女はこう願ったのだ。
《愛しい男を苗床に生えている薔薇の中に混じりたいのです。あの人が愛した赤い薔薇となってあの谷で生きたいのです》
< 46 / 55 >

この作品をシェア

pagetop