四竜帝の大陸【赤の大陸編】
「はぁ? 分けが分からないんですけど? 俺のほうが弱いからじゃねぇってことっすか?」
「ダルフェよ」

 泡を潰さぬような触り方もできるその指は、その手は。
 簡単にこの世界の未来さきを潰すことができる、この世で最も恐ろしい手だ。

「先程、我は言っただろう?」

 けれどその手は、この世界を守ることもできる……やる気にさえなれば。
 旦那は異界人の嫁さんに気に入ってもらえるような、好いてもらえるような世界にしたいって気は確かにある。
 でもそれがどんなものなのか、この人には分らない。
 永い間“空っぽ”に近い状態で過してきたこの人には、人間の娘が望む世界のありようなど分るはずがない。

「お前はにゅーにゅにゃーより価値がある、と」
「にゅーにゅにゃーじゃなく、瑠璃鼠でしょう? ……まぁ、鼠より価値があるって言われてもなんだかな~って普通なら感じですけどね」

 旦那自身もその自覚があるから、とりあえずはあの子が気に入ったカイユや俺やジリを壊さぬようにとっておいている。

「不満か?」
「いえ、あんたは普通適用外なんで光栄っすよ?」

 鼠よりって言われて、俺としては正直微妙っすけど……話、変えやがったな?
 わざとだ、わざと。
 わざとだと分るように、やりやがったってことは。
 俺の質問には答える気が無いってことか。
 つーことは、これ以上は訊いても駄目だな。

「じゃあ、別の質問していいっすか? ……導師は黒の大陸なんすよね? 何処にいるんですか?」

 赤の竜族である俺は、黒の大陸に行った事が無い。
 知識は資料から得ただけだが、主な大国の位置や政治情勢位は把握しているつもりだ。
 導師がいるのが竜族と国交を持っている国なら黒の竜騎士を派遣して、捕獲は無理でも逃がさないように監視だけでも……。

「………………さぁ? 黒の大陸での正確な位置までは、我にも分からん」
「え~、マジですかぁ?」

 嘘くせぇな~。
 “見逃がしてやった”って、言ってたしな。

「……もしかして旦那も・、導師に価値を感じちゃったんじゃないっすかぁ?」
「…………ダルフェよ」

 白い頬から手を離し、その手を顔前に移動して。
 旦那は指先についた泡を黄金の眼で見つめ……言った。

「“も”と言ったな? ………お前が先程言っていたのは、それだな?」

 開けられた窓から、緑の木々に熱を冷まされた大気が浴室に流れ込み。
 その爽やかな空気を運ぶ風が、白皙の美貌を撫でて消えていく。
 残るのは、浴室に満ちていく目に見えぬ圧力。

「そうで、すっ……」

 それを感じた俺の両足は、まるで血液が固まり、ぼろりぼろりと崩れていくような……その嫌な感覚を振り切り、俺は口を開いた。

「あんたにとって導師の珠狩りの術式は、“価値”があるんじゃないですか?」

 そう。
 価値、だ。
 価値ってのは……利用価値、だ。

「…………価値、か。……そうだな。確かに、導師には使い道が無いわけではないのだ」

 今の旦那の価値の基準ってのは、あの子が基準になっている。
 異界人の鳥居りこが、旦那の全てなのだから。
 旦那、あんたは姫さんを生かしたいだろう?
 ずっと、側におきたいんだろう!?
 ならっ……!

「じゃあ、旦那! 導師を<処分ころす>前に奴の頭から術式をっ……うわっ!?」

 俺の右手に、何かが触れた。
 手、だ。

「だ、だんっ……な?」

 その手は。
 温かな湯の中に身をおいているというのに……冷たかった。

「あの術式、我は“いらない”」

 その冷たさは、触れられた肌を伝わり。
 俺の血肉をなぞり内部を侵食していく感覚は、悪寒を通り越し……絶対的強者に支配される快楽を、脳に捻じ込んで……嫌悪の吐き気と悦楽の眩暈を生み出す。
 それが故意かどうかなんて、俺には分らない。

「なっ……なに言ってるんすか!? なんでですっ!? それが使えれば、あの子は生きっ」
「我以外の竜珠がりこの中に入るなど、嫌だ」

 俺の言葉をぶち切って、旦那はそう言った。
 ……そう言うと思ってたぜっ!!
 雌への独占欲の強い竜の雄なら、当然の反応だ。

「嫌ってねぇ……ですが、このままじゃあの子は老いて死にますっ……外敵からは守れても老いは、寿命からは守れない! あんたの竜珠の影響で普通の人間よりは長生きするでしょうが、それだってうまくいって100年に数十年足されるかどうかでしょうがっ!?」
「りこは我のつがいだ、妻だ。我の、我だけ。我だけのりこなのだ。我はりこを手放す気は無い。あの女ひとの血肉も魂も我だけのものだ。未来永劫、永遠に」
「だったら我侭言ってねぇで、使えそうなモンは使えよっ!!」

 俺は旦那の手を払いのけ、泡だらけの頭部から両手を離し。
 バスタブの側面に移動し縁を両手で掴み、俺を見ない彫像のような顔に自分から寄り、覗き込んだ。

「あんた馬鹿ですか!? 自分で言ってたじゃないですか! 神じゃないから万能じゃないんだってっ!! 万能の神様じゃないんだから、このままじゃいずれあの子を失うんですよっ!?」
「……」

 金の眼球が。
 ゆっくりと動き……俺を映した。
 旦那の眼の中の俺は、俺の持つ<赤>は。
 黄金に呑まれ、色褪せて見えた。
 それは、死が俺の目の前に来ていることを強く俺に感じさせた。

「生きれるんならっ、生かす術があるならっ……あんたはそれを選択すべきでしょうがっ!? ヴェルヴァイドッ!!」

 叫んだ声が。
 揺らいでいたのは。
 その、俺の声が。
 湿っていたのは。

「……俺だったら! 生き、られるっ、なら……生きられる、ならっ……」

 諦めたんじゃない、覚悟を決めたんだと。
 そう言いきかしてきた俺の、俺の心の奥に閉じ込めておいたものが。
 旦那のせいで、漏れてしまったのかもしれない……。

「………………………………息子がこのような能天気な阿呆で、ブランジェーヌは大助かりだな?」
「……はぁっ!?」

 漏れてしまったそれに気付き、慌てて押し込める俺に。
 旦那は、そう言った。
 思わず間抜けな声を出してしまった俺の顔に、湯に濡れた白い顔が近づく。

「お前の母親であるブランジェーヌが。あの・・ブランジェーヌがりこを生かすためだけに、お前のその浅はかな考えにのったと思うのか?」

 唇が触れ合うギリギリの距離で、感情の見つからない平坦な声が……その“音”には、感情ではない別のものがあった。

「……どういう意味です?」
「<色持ち>として、お前が産まれた時」

 その“音”は呪詛のように、俺の耳穴をこじ開け進入し。

「父親は跪き、我に息子の延命を祈った。母親は自分の寿命を息子と取り替えてくれと願い、我に縋った」
「なっ……そんな、の、聞いてなっ……」

 纏った言葉を、俺へと打ち込んでいく。
 聞いてはいけないと、脳内に鳴り響く警鐘をあっさり砕いて入り込んでくる。

「ブランジェーヌは、自分の寿命をお前に与えたいと言った。我は神ではないので出来ぬと答えると、ブランジェーヌは怒り、責めた。出来ぬと答えた我ではなく。自分自身を怒り、責め、泣いたのだ」
「……ッ」

 ……か、あっ……さんが、泣いた?
 あの人が、泣いた?

「ダルフェよ。お前が目をつけた導師の術式は、人間と竜族の間でのものだ。が、竜族間で成立する可能性もあるのだぞ?」

 そこまで言われて。
 俺はやっと気付いた。
 確かに今、旦那は言ったよな?。

 ---ブランジェーヌは、自分の寿命をお前に与えたいと言った。

「……ぁ……だ、だん、なっ……、まさか、まさっ……母さ、ん、はっ?」

 俺は、姫さんの延命だけを考えてきた。
 それだけが、望みだった。
 それ以外、それ以上を考えもしなかった。

「そうだ。お前の母親は阿呆なお前と違って賢く……強かだぞ?」

 母さんは。
 母さんは……導師の術式で自分の竜珠を、命を……俺にっ!?

「……ま、さかっ……そんな、ことはっ……」

 だって、俺の寿命は<色持ち>として生まれたからには当然のことだ。
 俺が短命なのは、“自然”で“普通”なことで。
 なにより、俺が死んでも世界は何も変わらない……この世界のため必要な<鳥居りこ>の命とは同列じゃない、同等じゃない。
 まったく“価値”が違うし、俺がもうすぐ死ぬのは自然で普通で当然のことをなんだから、変えることなんて……絶対にするべきじゃない。
 そんなこと、母さんだって十分に分っているはずだ!
 その母さんがっ?
 母さんは赤の竜帝だぞ!?
 禁術をなんて……そんなはずはないっ!

「違うっ! 母さんはそんなことをするような、そんなことを考えるようなっ……」

 否定する俺に。
 否定したい俺に。
 赤の竜帝であるあの人を、信じたい俺に。

「賢いブランジェーヌは阿呆なお前と違い、術式が不確かな状態のまま自分の命を賭けたりしない。必ず“試す”、ぞ?」
「……た、、試す?」

 否定も。
 信じることも。
 旦那は、許してくれなかった。

「ダルフェよ。どうやって、ブランジェーヌは試すのだろうな?」

 ……どうやって?
 どうやって、試す……試すってなんだよ!?

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