【完】『賀茂の流れに』

16 新たなる日々


ひとまず愛を智恵光院笹屋町まで連れて帰ったエマと翔一郎は、自宅となっていた二階の客間に蒲団を敷いて、愛を休ませた。

一階の事務所に降りると、

「ねぇ」

「?」

「なんとなくだけど…あれ妊娠じゃないかなって」

「…へ?」

翔一郎は素っ頓狂な裏声になった。

「勘だけどね、そんな気がするんだ」

「ホンマか?」

「ま、違ってたら違ってたで、いいんだろけど」

「うーん」

翔一郎の返事は、要領を得ないものであった。

「だからね…明日ちょっと念のために、病院に連れて行こうかと思って」

少し考えたが、

「まぁ念のためなら、えぇんとちゃうかな」

翔一郎はフランクな調子で答えた。



翌日。

エマは御所のそばの府立医大の附属病院へ愛を連れていった。

愛は気乗りがしなかったが、

「一応、念のために調べておいた方がいいからさ」

何ともなかったら何ともないで、いいことなんだしさ──とエマは愛を説き伏せたのである。

少し、待たされた。

「香月さん、こちらへどうぞ」

愛が呼ばれた。

立ち上がるとエマを見て、

「一人で大丈夫」

気丈に愛は診察室の方へと歩いていった。

エマはぼんやり、待ち合いにあった大画面の映像を眺めている。

どうやら情報の番組であったらしい。

東京で暮らすシングルマザーの話題を扱っているらしいことは、音声はなかったが字幕と画面だけでも察せられた。

目を移すと、窓の向こう側には青葉の褪せ始めた比叡の山並みが見渡せる。

──どうしたのだ?

と問いかけるような静けさだけが、そこにはある。

エマは少し茫洋とした心持ちで、おとなしく愛を待っていた。



しばらくして。

診察室のドアが開いて愛が戻ってきた。

「…どう? 大丈夫だった?」

「あのね…もう少しで四ヶ月だって」

「…もしかして」

「うん」

愛は頷いた。

「いったい誰の…?」

「薫だと思う」

愛にはそれしか思い当たるふしがない、というのである。

「ね、エマ…こういうことって、喜んでいいのかなぁ?」

「もしあたしなら嬉しいけどな」

だって大好きな人の遺伝子だよ?──と愛の両肩を掴んでエマはいった。

「でも、自信ないし」

「きっとね、その子は亡くなった薫さんの生まれ変わりだと思う」

もしあたしが愛の立場なら間違いなく産むと思う、とエマはキッパリした口調でいうのである。

「…そっかぁ」

本人も分からないうちに、愛の目からは涙が溢れ始めている。

「薫さん、きっと愛のもとへ逢いに来たんだよ」

「そうかなぁ」

「そうでなきゃ、こんなタイミングで妊娠なんかしないって」

「…だよね」

愛は、初めて笑った。

「でもシングルマザーって大変みたいだね…テレビでさっき映ってたけど」

ちなみにこの当時、婚外子は戸籍や相続の面で不利を強いられていた。

「海外で産もうかな」

思いついたまま、愛は冗談めかしていってみた。

「それ、いいよね」

エマはいった。

が。

はたと気づいたらしく、

「でもお金は…」

「撮影のときのギャラとかまだ貯金あるから、それで何とかなれば産めるかなって」

確かに。

愛には他に、大震災で家や両親を失ったとき整理して相続した現金がわずかだがある。

「このまま日本にいても、きっと福島には帰れないと思う」

だからいっそのこと海外へ打って出る…という選択肢も、考えることが出来たのかも分からない。



エマと愛は西陣へ戻った。

事務所には、仕事を早めに切り上げた翔一郎が座っている。

「ただいま」

「二人ともお帰り。ほんでどうやったん?」

「もう少しで四ヶ月」

「さよか」

翔一郎は表情が固くなった。

「翔くんさあ、うちらの子供じゃないんだから」

「せやったな」

翔一郎は場を明るくするために、わざと豪快に笑ってみせた。

「で、海外で産むいうたかて、あてはあるんか」

「まったく」

「うーん…京都で産んだ方が、楽な気はしよるよけどなぁ」

翔一郎はいった。

「せや」

思い出したのか、今出川浄福寺の頃シェアリングハウスにいた、ドイツ人の留学生にメールで訊ねてみることになった。

小一時間ほどで返信が来た。

「日本で産んだ方が苦労はしない」

という返答である。

「そっかぁ…」

しかし。

愛は即断を避け、

「少し時間がほしい」

といい、この日は帰った。



半月ほど、過ぎた。

鞍馬の火祭が済んだ頃ともなると、少し愛の腹部は目立つようになってきている。

「安定期に入ったから少し動かないと」

と、愛は再び写真家として活動を再開することになって、

「ちょっと香月さん大丈夫ですか?」

と、事情を知るスタッフやグラビアアイドルのマネージャーなどは、不安定な姿勢になる愛の妊婦姿にハラハラしながらも、撮影を見守ったりしていた。

いっぽう。

智恵光院笹屋町の方は相変わらず、のどかなものである。

撮影してきた鞍馬の火祭の現像が片付いて、再来年のカレンダーの紅葉の撮影をどこにするかを決めてなかったので、

「高桐院、宝筐院、神護寺と来たからなあ…」

しばし翔一郎は悩んでいたが、

「あ、まだある」

思いついたように調べものを始めた。



月が変わった。

ぼちぼち紅葉だから、というので朝早く翔一郎は例の黄色のリトルカブに機材を積んで、西陣を出た。

着いたのは二尊院という、これまた嵯峨の穴場の寺である。

二尊院には、

「紅葉の馬場」

と呼ばれる参道があり、両の枝から手一杯に伸びた梢が、朱やら緋やら橙やら、様々なグラデーションの錦に色づいていた。

観光客はだいたい見逃してしまうような場所なので、朝が早いのもあって撮影に不自由はしない。

カメラのファインダーを覗いて、独り黙々とシャッターを切るのが、翔一郎には心地の良い時間帯である。

撮影があらかた終わって戻ると、東京でのグラビアの撮影を片付けてきた愛が、土産の菓子折を手に訪ねてきていた。

「先生お久しぶりです」

「元気か?」

「もう安定期なんで、大丈夫です」

「それでね翔くん」

急にエマが向き直った。

「どないしたんや」

「今度ね、愛がアメリカに留学することになって」

驚いたどころではない。

「でも、三ヶ月ほどの短期なんですけどね」

「いつから行くのや」

「年明けにはニューヨークへ行きます」

なんでも。

いきさつを聞いた實平あさ美の事務所が、愛をマネージメントすることになり、その一環として留学が決まったのだというのである。

「写真をしっかり学ぶならニューヨークだって」

問題はそこではない。

「三ヶ月ってことは、帰りが予定日ぎりぎりぐらいになるんとちゃうか?」

「予定日が四月始めなんで多分、大丈夫かなって」

「ほなえぇけど」

まるで親のような心配ぶりに、

「翔くん老けるよ」

やきもちを焼いたのかエマは少しブスふくれていった。



南座の顔見世が始まった。

まねき、と呼ばれる看板の形をしたまっさらなかんざしに、舞妓は贔屓の役者に名前を書いてもらう。

そうした風物詩が京都にはあり、

(あー、もう師走やな)

という気分に翔一郎も変わってくる。

その頃。

無事にエマは通信制の高校の単位を取り終え、

(これであとは)

三月の卒業式を迎えるだけとなった。

しばらくして。

初詣が落ち着いてきた頃、ニューヨークへ留学に行く愛をエマと翔一郎は、京都駅まで見送りに出た。

「関空まで行く?」

というエマに、

「一人で大丈夫だから」

と、少し膨らんだ体で愛は笑って答えた。

「この際やからこれだけは言うておくが」

と翔一郎は、

「ニューヨークから戻ったら、いわばもう独り立ちも同然や。おれのことを先生って呼んだらあかん」

「えっ?」

「独り立ちしたら、愛ちゃんとおれは同業のライバルや」

せやが相談ぐらいはタダやから乗ったる──というと、

「相談でお金取ったらボッタクリじゃん」

翔一郎はすかさずエマに突っ込まれた。

「相変わらず面白い夫婦だなぁ」

愛は泣きながら笑っていた。

「泣いたり笑ったり、何や忙しいやっちゃな」

駅のアナウンスが聞こえてくる。

「じゃあ」

改札をくぐった。

振り返ると、愛は深々頭を下げてから階段へ消えた。

「…行っちゃったね」

「愛ちゃんは案外、日本におるより向こうの方が幸せかも分からんで」

「?」

「日本は何やかや言うても狭いからな」

愛ちゃんには所帯が小さいかも分からん、と翔一郎は判じ物めいたことをいい、

「たまにはエマ、デートしょうか」

「…うん」

手をつないで、地下鉄の方へと二人は歩き出した。



数日が過ぎた。

愛がニューヨークへ旅立って、やっとエマや翔一郎の気持ちも落ち着いてきた頃、

「そういや彦根へまだ連れてってへんかったな」

思い出したように翔一郎はいった。

以前の約束を、忘れてはいなかったのである。

「まあ新快速で一時間もあれば着くから、帰省のうちにも入らんけどな」

そんな調子で、日帰りでの彦根ゆきは決まった。

週末。

朝早く新快速で彦根に着くと、家並みの向こう側に優美な姿をした天守閣が、森の上から頂を覗かせ、朝の陽射しに照らされほんのり白壁が染まっているのが眺められた。

昨夜の雨は止んで、城山の先の空には淡い虹がかかっている。

「わぁ…」

エマはあまりの美しさに、声が続かなかった。

「こんな綺麗なところで、翔くんって生まれたんだね」

翔くんの家に寄ってみたい、とエマはおねだりをしてみた。

嫌がると思ったが、

「まぁ外観だけなら、えぇんとちゃうかな」

翔一郎は意外にあっさりと快諾した。

表通りから少し外れた、堀割に面した小さな武家屋敷が並ぶ界隈に、饗庭家はある。

十数年ぶりの生家で、

「まぁ勘当されたみたいなもんやから、中は入られへんけどな」

翔一郎の言葉が、エマには少し寂しく思われた。

たどり着いた。

驚いた。

いや、驚いたというどころでは済まされない。

あろうことか、生家が和風のカフェに変わっていたのである。

しかも。

標識には、

「旧饗庭家」

とある。

まだ開店前で入れない。

表通りの酒屋で観光のマップを開いてみると、五年前にオープンと文字があって、

(ひこにゃんブームの頃やないか)

翔一郎は愕然とした。

エマは翔一郎がショックを受けているような様子は分かったものの、それ以上のことは、顔からは判別できないでいる。

酒屋を出た。

おぼつかない足どりで翔一郎はふらふら早足で歩き出した。

「ちょっ…ちょっと、…翔くんってば!」

エマは必死で後をつけた。

来たのは松原の水泳場である。

息を切らせ気味にエマが追いつくと、翔一郎は肩を落として佇んでいる。

「翔くん…?」

覗き込もうとした。

いきなり翔一郎はエマの肩をつかむと、後ろへ向けた。

「…」

気づくとエマの背中に翔一郎はもたれ掛かって、嗚咽をもらしている。

「翔くん…」

エマにはそれ以上、何も言えなかった。

そのまましばらく、翔一郎はエマの背で痛哭で震えていた。



詳細が分かってきた。

すでに翔一郎は戸籍まで外され、五年前に翔一郎の父親が亡くなったのを機に家を売って、彦根を引き払った…というのである。

訊ねたエマに教えてくれたのは、翔一郎の生家の同じ並びにある、花屋の老婆であった。

翔一郎を、かろうじて覚えていたのである。

仔細が分かると、

「…エマ」

あとは何も言わず手をつないだ。

よく分からなかったが、何か大きなものを失った感はエマにも察せられた。

しばらく黙っていたが、

「翔くん、戻ろ」

エマが促す。

黙って翔一郎は頷いた。

そうやって。

まるで迷子の幼児を母親が連れ帰るように、エマは翔一郎の手を引いて、駅の方角へと歩き始めたのであった。
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