送り狼


その言葉を聞いた時…


彼は、自分の中から湧き上がる感情の中に、ざわめきを感じた…。


そのざわめきは、さざ波のように、小さく、小さく……


それでいて、確かな存在感を放ち、彼の心の内をチクリと刺した…。



「………それは……お前の…恋人なのか……??」



そんな彼の心の内など知るはずのない娘は、


最良の笑顔を彼に向けた。


よく笑う娘だが、

その笑顔は彼が知る範囲では、

本当に最上級の笑顔で、


思わず彼はその姿に見入ってしまう程だった。



「…うん…。…大切な恋人…。

 私には勿体ないぐらい、かっこよくて、優しい人なの」



そう言って

薄桃色に染まる頬に、白い指をあてて、優しく瞳を細める娘の姿は

とても美しかった。



その美しい娘の姿を、まだ見ていたいと思った彼は


娘の他愛のないおしゃべりに


何度も相槌を打つのだった。





娘は、短時間で沢山の事を話してくれた。

病弱な母親の事、やんちゃだが、思いやりのある弟の事、

そして、愛する男の事…。




その男とは、何年も前にこの山で出会ったらしい。

山菜取りに山に入った娘が道に迷い、

そこに出くわした男が村まで送り届けてくれた事が

二人の馴れ初めなのだとか…。


最近やっと想いが通じ合え、幸せな一時を送っていたようだが、

どうやら、この男、高貴な出のようで、身分違いの恋に

娘は心を痛めていたようだ。




何処にでもある話だな…。



これもまた、彼の率直な意見だ。







人というのは、いつだってこのような小さな事で心を痛める。


神である彼には、人の気持ちは理解できない。


それでも、彼が最後まで、娘の話に相槌を打ち続けたのは


ころころ変わる娘のその表情を


『まだ見ていたい』



と彼が、そう強く望んだからだ。





この時、彼はまだ知らなかったのだ…


心の内を薄布で優しく撫でるようなこの思いの名を何と呼ぶのか…




彼はまだ知らなかったのだ…。


やがて、彼の望んだ先に何があるかなど…






そんな彼の今はまだボヤケタ感情が……








大きな運命の歯車を





ゆっくりと…






そして…じわりと…








確実に変えていく事になるなど







無邪気に語る






彼女も、そして彼自身もまだ知らない………。














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