スナック富士子【第四話】

「いつか、スイスへ一緒に行こう」とは言ってくれない男は、次の客が賑やかにドアを軋ませた頃、いつものように「また」と言って帰って行った。

その後、秋の長雨に時折顔を見せてくれた彼は冬がやってくる頃、姿を見せなくなった。彼が最後にやって来た日、多分、これが最後になるのだろうという予感が富士子ママにはあった。特に変わった事があった訳ではない。ただ、彼の目が、彼の手が、富士子ママの居るカウンターを、この店を、慈しんでやまないことを語って、そして、彼は折りたたみ傘を彼の座っていた椅子の下に忘れて帰って行った。

「いつか、忘れ物をしちゃったよ、って来るかもしれないじゃない?じゃなきゃ、本物のカウベルを持ってさ・・・。」と富士子ママは言う。いつかスイスへ一緒に行こう、と優しい嘘の約束も出来ないくせに、その男は何ひとつ言葉にする事なく富士子ママを縛り付けている。

午後になって雲行きが怪しくなると富士子ママは、約束ですらない、言葉にすらならなかった当てのない訪(おとな)いを待つ。あの日、彼の手からハンカチを受け取る事ができなかった後悔を胸にそっと滲ませながら・・・。



第二話 「待ち人の約束」終わり
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