伯爵令嬢は公爵様と恋をする
Vol.2



 ディートリヒ・バウムガルト 「公爵」
 それが、突然現れた救世主(?)の名前と身分だった。
 彼は静かに泣きじゃくっていた私をそっと立ち上がらせ、肌に優しい柔らかなハンカチーフで丁寧に涙を拭い、控えていた使用人に命じて屋敷の戸締りをさせると、呆然としている私を抱き上げて馬車へ運んでくれた。
 目の前で行われるあまりに手際のいい指示と行動に、思わず傍観者になっていた自分が恥ずかしい。
 すっかり思考も停止して、はっと気付いた頃にはもう馬車が動き出していた。
 名乗ることも忘れ、彼の顔を凝視してしまう。
 なぜ。
 彼は社交界で最も有名で、もっとも輝いている人物だ。
 所有する財力もさることながら、彼の能力と容姿は群を抜いており、それこそ女性は選り取り見取りなのに浮いた噂の一つもなく、近づく女性はことごとく玉砕し続け、一体誰がこの孤高の公爵の寵愛を受けるのか、秘密裏に賭け事になるほどだ。
 さらにはあまりに女性に興味を示さないため、本当は誰か可愛がっている「男性」がいるのではないかと噂されたこともある。
 しかしそちら方面での浮いた話が出ることもなく、結局は単なるうわさで終わったけれど、それでも「たとえ一夜の相手だとしてもいいから」彼の相手になりたい、という女性は後を絶たない。
 能力の高さから政治的手腕も買われており、さらには武術も難なくこなし、国王陛下やその側近たちからの信頼も厚いという、私にとっては何とも雲の上の人であり、別世界の人…のはずだった。
 彼の姿を見たのはまだ父が生きている頃に一度、パーティーに招待された時だった。
 あれは確か彼の花嫁探しも兼ねていたはずだが、それでも彼の心を射止める女性はおらず結婚の話は流れてしまったらしい。
 一体どれほどの女性なら彼を満足させられるのかと、誰もがそれぞれの思いを胸に残念がっていた。
 そんな人が今、目の前にいる。
 さらに言えば、あれだけどんなに才色兼備な女性が大勢近づいても陥落することのなかった彼は、その掌の中にひときわ強く輝きを放つ石をあしらった指輪のケースを手にして、こちらに向けていた。
 全く読めない。
 彼の感情も思考も、この話の流れでさえ、ネジの飛んだ今の私には理解できない。
 だから図らずも彼の顔を凝視することになってしまったのだ。
 それなのに。
 言葉を失って呆然と彼を見つめる私に返されたのは
「!?」
 ふわりと柔らかく、それでいてカプリと果実を噛むような、そんな口づけだった。
 啄むような口づけは次第に唇を合わせる瞬間が長くなる。
 何度も、何度も、何度も。
 このまま本当に食べられてしまうんじゃないかしらと思うくらい、丁寧に、優しく、でも強引に。
 呼吸すら忘れてしまう。
 でも息苦しくなかった。
 唇を食まれる間に上手く呼吸を促されて、教えられたわけでもないのに短い呼吸を何度も繰り返してしまう。
 苦しくないはずなのに、胸が痛い。
 まるで握りつぶされているかのように心臓が軋んで、目の端から涙がこぼれてしまう。
 こんな感覚は初めてだった。
 いつの間にか眼鏡まで取り上げられて、間近に彼の瞳が映る。
 彼は社会的に絶大な信用を得ている。
 だからアウラー男爵に嫁ぐより酷いことにはならないだろう。
 奴隷のように扱われることもない、かもしれない。
 けれど誰もが羨む人物が、言ってしまえば恋愛になど興味もなく、並大抵の女性には興味も示さないはずの人が、こんな小娘の唇を紳士的な丁寧さを保ったまま、それでいて果てしなく感じてしまうほど長い間、何度も何度も口づけを繰り返して離そうとしない。
 それが一体どうしてなのか、ぼんやりし始める意識では到底考えられそうになかった。
 彼の口づけは一定のリズムを刻みながら、深みを増していく。
 最初は唇だけを合わせていたのに、気付けば彼の舌が明確な意思を持って私の口内を探っていた。
 交わされる唾液を甘く感じる。
 誰とも重ねたことのない唇。
 それなのに初めての口づけが、こんなに長く、深く、激しいものになるなんて。
 相手がだれかなんてどうでもよくなっていた。
 知りたいのは、どうしてこんなことになっているのか。
 一体相手が何を考え、思っているのか。
 戸惑いも拒絶も浮かべる暇なく、一切の思考を遮られてしまうほど彼の行動は私の感情をあっさり奪っていた。
 分かったのは、彼の唇がとても柔らかく温かいことと、口づけは甘いのだということ。
 そんな唇が離されたのは、いよいよ呼吸できなくなって脱力し始めた私に彼が気付いた頃だった。
 どれくらいの間唇を重ねていたのだろう。
 感覚は残っているけれど、ずいぶん痺れている気がする。
 ぼうっとして力の抜けた私を胸に抱きとめて、彼はしっかりした腕を回した。
「ふう…」
 深いため息が聞こえる。
 どうして。
 ちくりと、胸が痛みを刻む。
 突然の出来事に私の頭はすっかり考えることを放棄していた。
 そんな中感じた微かな痛みは思いの外私の心を重くする。
 私はその理由もわからないまま、静かに瞳を閉じた。




 意識が戻ってきたのは多分、馬車特有の揺れが収まり、代わりにふわふわと浮遊感を味わったからだ。
 鼻をくすぐる微かな香りが心地いい。
 甘いわけでもなく、爽やかで優しい匂い。
 小刻みに体が揺れるけれど、それも何だか揺り籠の中にいるようで安心する。
 寝ぼけた頭ではそこがどこなのか分からなかったけれど、背中から伝わる温もりに私はすっかり安堵しきっていた。
 散々泣いたせいで目が痛い。
 それにどうしたことか唇までじんじん痺れている。
 唇。
 そう意識した途端、馬車の中での光景が高速でフラッシュバックした。
 思わず感覚のなくなった唇に手を当てて目を開ける。
 と
「動くと危ない。舌を噛むから口を閉じていろ」
 低いけれど、初めて聞いた時よりも幾分和らいだ声が頭上から降ってくる。
 浮遊感の原因は彼だった。
 無駄な贅肉などどこにもなく、鍛え上げられたしなやかな筋肉をまとった逞しい腕が私を抱き上げていた。
 屋敷を出る時といい今といい、簡単に軽々と抱き上げられてしまうなんて。
 何だか恥ずかしい。
 確かに小柄な方だけど、ドレスの重量も考えるとそれなりに重いはずだ。
 それを彼は抱え直すことも、顔をしかめることもなく、淡々と歩いていく。
 何事もなかったかのように無言で。
 まさかさっきまでの出来事は全て夢だったのだろうか。
 あまりにも絶望しきっていたから、助けてもらえると分かっただけで変に舞い上がってしまったのかもしれない。
 だって彼は、バウムガルト公爵で、どんな女性にも靡かなかった雲の上の人。
 大人の色気が漂う美女がどんなに近付いても見向きもしなかった人。
 そんな人が私みたいに何の取り得もない娘に興味を示すはずがないもの。
 …じゃあ、どうして?
 急に疑問が湧き上がる。
 公爵はどうして私を助けてくれるなんて言ったの?
 特別父と仲が良かったわけでもないし、何か繋がりがあったわけでもない。
 私自身公爵と面識があるわけじゃないし、私を助けたところで公爵にとってメリットがあるとも思えない。
 それなら一体、なぜ?
 間近に見える彼の顔を見上げる。
 眼鏡がないせいで相当ぼやけて見えるけれど、完璧すぎる輪郭は分かる。
 表情を見ることはできないけれど、彼の喉がゆっくり動いているのが見えた。
 何もかも全て完璧にこなしてしまう、まるで物語に出てくる王子様のよう。
 こんなに近くにいるのに、遠く感じる別世界の住人。
 一緒に来いと言われたけれどその先は聞いていない。
 私を連れて、どうするの?
 莫大な借金と厄介な婚約者を抱えた私を拾って、一体何を考えているの?
 これから、どうなるの?
 甘いロマンスを期待する気持ちなど一切湧かないまま、疑問ばかりが深まっていく。
 そうこうしている間にお屋敷の大きな扉が見えてきた。
 彼の長い脚はあっという間に距離を縮めて、従者たちが扉を開けるとそこで待っていたのは、彼を出迎えるために待ち構えていた数十人の執事とメイドたちだった。
「おかえりなさいませ、旦那様。準備は既に万事整っております」
「ありがとう。では彼女を任せる」
「畏まりました。ゼルダ、エルフリーデ様をよろしくお願いします」
「はい」
 執事長と思しき人物はグレーの髪をしっかり撫でつけ、威厳あるオーラを漂わせながら折り目正しく主を出迎え、ゼルダと呼ばれた一番年配のメイドがこちらに歩み寄ってくる。
 長年このお屋敷に仕えている人達なのだろう。
 どちらも主に負けず劣らず重厚な雰囲気を持っていた。
 初めての光景に固まっていた私をふわりと降ろし、彼は手にしていた眼鏡をゼルダに渡す。
 すると彼女は丁寧にお辞儀をして笑顔を浮かべた。
「メイド長のゼルダと申します。これからは何なりとお申し付けくださいませ。エルフリーデ様に仕えることが出来て、大変光栄でございます」
 私に、仕える?
「…あの…」
「旦那様ともども、心待ちにしておりました。ご実家では色々おありだったと思いますが、どうかここではご安心くださいませ。まずは湯あみのお手伝いをさせていただきます」
「え?いえ、あの、それなら自分で」
「何をおっしゃいます。これから奥方様になられる方なのですよ?」
「…え…?」
 奥方?
 私は咄嗟に公爵の顔を見上げた。
 深いアイアンブルーの瞳が僅かに揺れる。
「そういう事だ」
 要領を得ない短い返事。
 そういう事って、どういう事?
 まさか私が公爵と結婚するってこと?
「私たちにとってエルフリーデ様の身の回りのお世話をさせていただくのは一番の栄誉なのです。さあ浴場はこちらです」
「えっ、あ、あのっ」
 最高に戸惑う私の事などお構いなしに、ゼルダは他のメイドたちと共に私を囲んで浴場へ連行する。
 まったく事情が呑み込めないまま慌てふためく私を、彼は静かに見つめていた。





 続く
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