ボレロ - 第三楽章 -


まさか私が表玄関から入るとは思っていなかったのだろう。

彼らは今ごろ、地下駐車場で待ちぼうけなのね……

爽快な気分になったのもつかのま、私は別の緊張に包まれた。

もう社員証を提示することはなく、誰もが私の顔を知っていた。

「おはようございます」 と行き交う社員から声がかけられるが、挨拶をして

数歩離れると、背後からひそひそと小声が聞こえてくるのだ。

「あの記事は本当なのかしら」 とでも言っているのだろうか。

それとも 「こんな騒ぎを起こして 迷惑なお嬢さんだ」 とでも噂している

のかもしれない。

外部だけでなく、内部でも好奇の目にさらされるのか……

不快で顔が歪みそうになったが、初日からこんなことでどうするのだと自分を

励まし、いつも以上に背筋を伸ばして歩いた。

ロビーを過ぎ、エレベーター前に専務秘書の浅見里加子さんの姿が見えると、

張り詰めた気持ちが少しだけ緩んだ。



「おはようございます。玄関前はいかがでしたか。

先ほどはそれらしき人々は見えなかったのですが」


「おはようございます。えぇ、誰も……

前島さんに知らせてくださったそうですね。おかげで何事もなくすみました」


「さようでございましたか」



浅見さんは軽く微笑むと、私に背を向けてエレベーターの表示パネルをタッチ

した。

タイトなスーツが彼女の体をより引き締まったものに見せ、結われた髪は一糸

乱れることなく形良く襟足にまとめられている。

かなりの長さだろうと思われるが、彼女が髪を下ろした姿をまだ見たことは

ない。

結われても色のむらのない髪だと気がつき、興味から彼女に 「綺麗な髪ね。

ご自分のお色かしら」 と尋ねたことがある。

「はい、少し茶色がかっている髪ですが」 と……謙遜しながらも嬉しそうな

顔だった。

けれど、彼女のそんな顔を見たのは一度きり、浅見さんとは仕事で会う関係で

もあり、立ち入った会話はない。

それでなくとも彼女は、冗談を向けるのもはばかられる空気をまとっている。

この人のプライベートは、どんな姿なのだろうと想像してみるが、まったく浮

かんでこない。

宗の秘書の浜尾さんにも通じる隙のない身のこなしで、仕事ぶりも優秀だと

知弘さんから聞いていた。

どこかミステリアスな雰囲気のある女性だと、会うたびに感じる人でもあった。


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