若と千代と通訳

(……酷すぎる)
所詮、その程度なのだ。
彼らにとっての千代は、その程度の認識。こういったことがあれば、千代の人間性をさっくりと誤解して信じてしまうくらいの、その程度の存在でしかない。
冷ややかな千代の言葉に呆然としている志摩、曜子、そして臣の傍を通り抜けると、足早に店をあとにした。
途中、すれ違ったボーイがぎょっとした反応を見せたので、酷い顔をしているのだと自覚する。
腹が立つやら傷付いたやら、悲しいやら。

「……ひどいな」
とんでもない言葉を浴びせられた。
専門学校のいじめでもあんな直接的に貶められたことはない。
外に出て冷たい空気に思わず深く息を吸い込む。
と、我慢していたなにかが気管を通る空気と一緒に瓦解した。
「ひっく」
肩が震える。
時間帯も時間帯で、皆それぞれの店に落ち着いている時間だからか、人の通りは少なかった。
それでも往来でぼたぼた涙を流しているのは目立つ。
さっさと家に帰って号泣しよう。千代はスニーカーでアスファルトを踏みつけた。
「っ……ぐえ」
しかし、一歩踏み出した瞬間に、またしてもとんでもない力で引きとめられた。
そのままぐいぐいと引っ張られて、狭い路地の中に連れ込まれる。
目の前の大きな熊の背中なんて、今の千代にとって痛いもの以外ない。
狭い路地は、それこそ巨体な臣が入ると壮絶な圧迫感を千代に与えた。
臣は往来の喧騒が少し遠ざかった位置で立ち止まると、千代を振り返る。
掴まれた腕は、そのままだった。
「……」
臣はやはり口を開かない。
それが、今の千代には無性にむかつく。
「なんですか、いくらアバズレのガバガバ女だからって、臣さんまでたらしこんだりしませんから安心してください」
たらしこめるものなら、全力でたらしこみたいものだが。
「……」
千代の皮肉にも、臣はなにも言わなかった。
ただじっと、ぼたぼたと落ちていく千代の涙を見ている。
「なんですか、見ないでください」
こんな不細工な顔。
言ってることも曝してる顔も可愛くないなんて、仮にも好きな人を目の前にしている自覚はあるのか、千代よ。
「……」
臣はやはり無言のままだ。
ただ、千代の腕を掴む指に、少しだけ力が籠もる。
臣の視線が、千代の濡れた頬をじりじりと焼いた。
「なんであんなこと言われなきゃいけないの」
我慢できなかった。
「しまさん、ひどい。なんであんなこと言われなきゃいけなかったの」
ぼたぼたと、さっき以上の勢力を増して、涙が溢れてくる。
「臣さんもひどい、迷惑なら迷惑だってはっきり……ていうか、私そんな迷惑になるようなことしてた!?してなくない!?」
付き合いなんて『ごんぶと』の中だけだし、ここ最近はそれ以外の接点もあったが、全て不可抗力、偶然だった。
シイナが言うほど付きまとった覚えはないし、迷惑をかけた覚えもない。アビゲールは例外。
ぼたぼたと涙と共に零す千代の言葉に、臣は首をかしげたようだった。
千代の語る言葉は、臣の思考とはかけ離れすぎている。
「期待させないようにあしらうってなんだ、はなから脈なんてゼロに近いのに、期待なんかしてないよ!こっち見てほしかったのは認めるけど、認めますけど!迷惑だって他の女の人に愚痴るなんてひどいよ!」
ぶわっと巨大な波が訪れて、臣の巨体を流していった。
千代はそんな臣に気付かず、俯いたままひくひくと嗚咽を洩らしている。
「いいじゃん!私が誰を好きだろうが、誰にも関係ないじゃん!迷惑かけてないなら、好きでいさせてよ!一般人のくせにとか若とか、意味わかんないよ!私が臣さんを好きで、誰が迷惑こうむ」
ゴツッ。
一世一代の告白もとい駄々は、前歯に走った衝撃で終わりを迎えた。
臣の両手が千代の両腕を痛いくらいに掴んで、引き寄せている。
臣の顔が、左眉に走る傷跡の深さがはっきり見えるくらいの近くにあった。
「むご!?」
驚愕のあまり、口を塞がれたまま喋ってしまった。途端、ぬるりとした分厚いナメクジが千代の口の中に入ってくる。
ひいいいいいいいっ!?
千代はパニックに陥った。
ナメクジは苦手だ。少し力を込めるとつぶれてしまうような系は、その頼りなさが怖い。硬い装甲を纏っているゴキブリのほうがまだましだ。
しかし今、そのナメクジが千代の口の中を這い回っている。
掴まれた両腕が痛い。めっちゃいたい。ぎりぎり言ってる。
大きな巨体に飲み込まれるように覆われて、千代は逃げるように後ずさろうとするが、それすら許してもらえなかった。

――にがい。

ぬるりとしたナメクジの表面から、苦い香りが立ち上っている。
(セブンスターのにおいだ……)
思い至って、千代は足元ががらがらと崩れていくような錯覚に見舞われた。
それはそのまま力の抜けてしまった両脚に繋がり、一気に体重を支えることになった臣が気付く。
つるりと抜けていった臣の舌が、ぺろりと口端を拭うのを近距離で目撃してしまった。
両脚から完全に力が抜けて、間抜けなスニーカーがざり、と汚れたアスファルトを蹴る。
両腕から腰に腕を回して支えてくれている臣を拒絶するように、千代は自分の緩みきっただらしない口許を乱暴に拭った。
「な、にしてんですか、あんた」
もはや、いつもの言葉遣いすら出てこない。
「アバズレじゃないって、私、いま、言いましたよね」
ふざけんな、と胸のうちからもくもく立ち上る怒りに、千代はぶるりと震えた。
「あんたも志摩さんも、人のことなんだと思ってんだよ!」
ガツ!
ついさっき、前歯がぶつかった音と似たような音を立てて臣の頬をぶった。
かたい、いたい。
全然ダメージ食らってないじゃん、なんだこの熊、サイボーグか。
臣はまるで虫にでも刺されたかのような顔で、再び千代を見下ろした。いつものように静かな眼に、僅かながら揺れるような熱っぽさを発見して、すぐさま離れたいとぞっとする。
支えられなきゃ立つことも叶わない脱力しきったからだが憎らしい。


「若!」
丁度そこへ、志摩と見知らぬジャージ姿の須藤が飛び込んできた。
千代が臣を殴ったところを見ていたらしい。
須藤が、眉尻を吊り上げて千代に足早に近付いてきた。
「おいこらてめえアバズレ女ぁ、なに若殴ってくれてやがんだオ」
ラァ、は臣のヤクザキックに消えた。
真横に繰り出された蹴りに、抱えれていた千代も臣の体に沿うように傾く。
「千代嬢」
ばたっ、と倒れたジャージ男を踏みつけて、何故か額に四本の爪痕をつけている志摩が近付いていた。
あの冷ややかな言葉と眼差しが思い出されて、千代は思わず身構える。
そして臣が、それを庇うように、抱き締める腕に力を込めた。
それを見て困ったように笑った志摩は、いつもの志摩だった。いや、いつもより三割ほど殊勝に見える。
とはいえ、千代が警戒をとくわけもない。
また何を恐ろしいことを言われるか――考えて、ぞっとする。
少なくとも、志摩のことは嫌いではなった。ロマンスグレーで紳士的な彼は、千代にとっては臣とつなが
ることのできる、大切な人物だったのだ。優しいし、穏やかだし、少なくとも、すきな人物であった男に、あんなあからさまに侮蔑の眼差しを向けられる経験は、志摩のボディブローが、千代の無防備な心臓を抉っていったことと大差ない。
千代の眼に怯えた色を見て、志摩は弱りきったように肩を落とした。

「すいやせんっしたあああ!」
そして次の瞬間には、汚いアスファルトに土下座していた。
なにしてんだこのおじさんは。
臣から蹴りを食らったジャージ男も、鼻血を垂らして呆然としている。
現状の把握に相当の時間を要したが、その間、臣が千代の混乱を宥めるように背中を撫でてくれていた。やめてください、あったかくて涙でそうになるんで。
「千代嬢の人柄、今まで近くで見てきて重々承知の上であったにも関わらず、此度の件でうちの若がどれだけ傷付いたかを思えば、ついあのような言葉を吐いてしまいました。すいやせんでした!」
ゴツ!
この音を聞くのは、今日で三度目だな、と千代は思った。
美しい弧を描いた志摩の額が、ざらざらしたアスファルトに擦りつけられる。
ぬらりとそこから顔が上げたかと思ったら、真面目な顔が千代を見上げていた。
「事情は曜子から聞きました。あの礼儀のなってねえガキ達に強引に連れてこられ、あまつさえ連れ帰ろうとしてくれていたところを、余計な気を回した曜子がほぼ無理矢理店内に引き入れたとのこと」
ゴツ!
四度目である。
「赦してくれとは言いやせん。この志摩、嬢の気が済むよう、煮るなり焼くなり、指詰めで落とし前つけさせるなり、好きにしてくだせえ」
いや、しないけど。
千代はあまりの急展開に、やはり呆然としたまま臣に抱かれていた。
とりあえず誤解が解けたらしいことは解る。
で、勝手に誤解した挙句、暴言を吐いた己にやり返してくれて構わない、と志摩は言っているのだ。
千代は臣の胸をとんと押した。
志摩の長々とした口上の間に、足に力が戻っている。
意図に気付いた臣が、妙に離れがたいような動作で千代から手を離した。
千代は土下座をしている志摩のもとまで行くと、しゃがみこむ。
「……志摩さん、顔上げてください」
「……許してくださるまで、上げやせん」
なんだこの江戸っ子みたいな人。
千代は困ったように笑った。
臣とジャージ男が、固唾を呑んでふたりの行く末を見守っている。
「だから、許すために顔上げてもらえませんかね」
「千代嬢……」
千代の囁くような柔らかな声に、志摩が顔を上げた。やはり殊勝な顔が、千代を見ている。
その弱りきった目を見つめて、千代は無邪気に笑った。
「謝るなら最初から言うんじゃねーよ!」
ゴツ!
志摩は汚れたアスファルトに倒れ伏した。
須藤が悲鳴を上げる。
「帰ります。さよなら」
千代はさっさとその場から去ると、やがてぽろりと涙を流した。

「ファーストキス盗られた……」

見上げた空は相変わらずネオンが眩しくて、千代の泣き顔を燦燦と照らしている。
ぼろぼろにやつれた心も、殴った拳も、ひどく痛かった。






「おい、見たかよ」
「あれか?まじで?あんなふつーの女があの近藤組の臣のイロか?」
「世話役の志摩が土下座してんだぞ、間違いねえよ」
「明さんに連絡いれろ」

「あの絶倫サイボーグやろうの弱み、見つけました、ってな」

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