若と千代と通訳



「臣さん」

千代はなにかを確かめるように、名前を呼んだ。
そうすることが、今はいいような、それしかできないような、そんな気がしたからだ。
戸惑ったままの臣が、はっと我に返ったかのように後退した。それを袖を引っ張って阻止すると、千代は臣の手を握った。
この前より、熱い。
(臣さん、そんな顔でそんな場所にいたらだめだ)
漠然とそう思って、千代は歩き出していた。
千代に直接手を握られ臣が、硬直したことには気付かなかった。
黙々と臣を引っ張って歩いていると、大通りに出た。もともと大した距離などない。
深夜の暗闇に、目的地のマツモトキヨシとローソンが煌々と光っている。
薄暗い通りから飛び出すと、まるで昼間のように辺りを明るく感じだ。
己の影が濃く後ろに伸びているのを確認すると、千代は潔く臣から手を離した。
臣はまだどこか呆然として、明るくなったあたりを見渡している。
「臣さん、ここで待ってて」
千代はそう言って、臣を置いてマツモトキヨシに飛び込んだ。
アビゲールとカレンの目薬、それから絆創膏、それからスポーツドリンク。
会計を済ませると、駆け足で店を飛び出す。
(……いた)
臣は、千代が置いていったまんまの状態で突っ立っていた。

「臣さん、顔、血が出てる」
千代がそういうと、臣はぱっと素早く顔を隠した。
「左のほっぺた。多分、さっきのナイフ」
辺りが明るくなって初めて気付いたのだが、臣の頬には赤い傷がついていた。
「これどうぞ」
たった今購入した絆創膏の箱とスポーツドリンクを渡す。
臣は片手で顔を隠したまま、千代からそれを押し付けられるがまま受け取った。
そんな臣を、千代はじっと見た。
臣が、視線も逸らせずそれを見つめていると、やがて千代のほうから視線を外した。
「おやすみなさい」
言うが早いが、千代は臣に背を向けて走りだした。
今度はきちんとメイン通りを選ぶことにした。



「わーかー」
臣が暫く呆然としたまま突っ立っていると、志摩が間延びした声で迎えに来た。
「なに勝手に行方くらましてんですか。皆心配したんですよ」
キッと、音を立てて海江田が運転する車が臣の前に停まった。
先ほど乗ったバンではなく、いつもの黒のレクサス。
「海江田なんて若を勝手に放流した罰としてあいつらにぼこられて可哀想なことになってんすから」
その海江田の腫れあがった顔の六割は志摩によるものだ。他の追随を赦さないフルボッコであった。
「……珍しいっすね」
無言で乗り込んだ臣を横目に、志摩はぽつりと言った。
視線は、臣が握っているスポーツドリンクと絆創膏の箱に留まっている。
臣はそれに答えることもなく、ただ流れていく車窓の景色を見ていた。
「若」
志摩が改めるように呼んだ。
それには臣も反応して、視線だけ流す。
「ついてますよ、ここ」
志摩が自分の左頬を指して言った。
臣は一瞬だけ手元の絆創膏に視線を落としたが、すぐに前を向く。
ぐいと乱暴に拭われた左頬に、傷はなかった。

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