若と千代と通訳


「鬼眼羅ぁ?」
志摩がピースを懐から取り出しながら、不機嫌な声を上げた。
隣では臣が二本目のセブンスターを灰皿に押し付けている。
「この前、頭に絡んできたっつう半グレ、多分そいつらで間違いないっす」
助手席に座る須藤が、ルームミラー越しに臣に視線を寄越した。
「元々は関西連合の仲間だったらしいっすけど、何年か前にこっちに活動拠点移したそうです。で、九代目ん時にうちと騒ぎ起こしてます。ここいらで勝手にシノギ始めて、うちに目ぇ付けられたとかで、未だにそん時のこと根に持ってるらしいっすよ。その後、うちと対抗するために、梅沢連合の傘下に入ってます」
九代目組長は、現組長宇佐美の実父だ。その時に起こったトラブルなら、もう既に解決していてもおかしくない。近藤組はどちらかといえば理性的な組体制で、むやみに暴力事件は起こさないが、その反面、代紋にケチをつけられた場合には全力でやり返す。暴走族上がりの半グレが生意気にも近藤組のシマで勝手をしたというなら、きちんと制裁を行った筈だ。あいつらは中途半端に赦すと、妙なしぶとさでやり返してくる。
「……それが、そんときのリーダーがヤクで死んで、新しいのが立ったらしいんすけど。その新しいリーダーってのが血の気が多い奴で、ところ構わず喧嘩売りまくってるって話っすよ」
迷惑な話っすよねえ、と生意気な子供の話でもするように、須藤は肩を竦める。
「てこたあ、近藤組の臣だって承知の上で襲ったってわけかい」
志摩の声が、いつもより低くなる。
半眼になったそれにミラー越しに睨まれた須藤が、さっと視線を逸らした。
「若、あんたがべらぼうにつえーってのはこの志摩、重々承知ですが、とりあえずコトが片付くまでは単独行動は控えてくださいよ」
志摩の言葉に、臣は無言で答えた。
「ま、千代嬢のケツを眺め回しにごんぶとに飯食いに行くくらいなら構いませんけど。俺も付き合いますし」
そう言った志摩の顔面に容赦のない裏拳が決まった。
運転手海江田と須藤は暖房の効いた車内で震え上がった。



「そんじゃ、俺らとおねーさんの出会いに、かんぱーい!」
カキン。
くすみひとつなく磨かれたグラスがぶつけられた。
千代など名前すら聞いたことのないウィスキーが中で揺れる。
一ツ橋青年の、父親の名刺を持ってリベンジしよう、は、結果的には成功した。高級クラブだからこそそんなもの通用するわけないし、どうせ門前払いを食らうだろうからそこまで付き合ってさよならしようと考えていた千代は、自分の考えが甘かったことを知る。
瀟洒な扉を潜ったとき、千代の予想通り、一ツ橋青年グループは厳格そうなボーイに足止めを食らった。案の定、父親の名刺など役に立たない。
当たり前だ。一見さんお断りの店に、自分の品位を落とすような知り合い(この場合、息子だが)を名刺一枚で紹介するわけがない。下手すれば、己まで入店禁止を食らう。
千代が、ほら見ろ、さあ君達いいこだからおうちに帰ろうね、とブーイングをしている一ツ橋達を店の外に出そうとしたときだった。騒ぎを聞きつけて奥から出てきたクラブの美しきママが、千代の顔を見た瞬間に何故か顔色を変えたのだ。
「……お嬢さん、そちらの坊ちゃんたちはお知り合いでしょうか」
と驚いた顔で尋ねてきた。
えっおじょうさん?
千代は言葉に詰まったが、なにやら脈アリの気配を感じ取った一ツ橋達に押しに押され、思わず頷いてしまった。
そこからはもう、洒落た店内にあっさり通されたかと思えば、下にも置かぬ接待でVIPルームの個室にまで通されてしまった。紗が幾重にもかかったカーテンと、明るかった店内より一段落暗く落とされた照明が、落ち着いたアダルトな雰囲気を作り出している。
一ツ橋に世の厳しさを味あわせたあとはさっさと帰ろうと思っていた千代が我に返ったのは、熱帯魚のような美しいドレスを着た綺麗な女性に、にこにこしながら酒を注がれたあとである。
「なんかさー、千代さんの顔見た瞬間に態度変わったよね。なんなの、千代さんて実はすごいヒトなの?」
一ツ橋がにこにこしながら千代の顔を覗き込んでくる。
「……えっ、さあ?……あ、お隣さん待遇とか、なのかな」
千代がお隣のごんぶとで働いていることを知っているのだろうか――いやいやまさか。だからってお隣さん待遇ってなんだよ。千代は自分の幼稚な脳みそを呪った。
一ツ橋はそんな千代を面白そうに眺めていたが、なんとも魅惑的な美女に酌をされ、あっという間に千代から興味を失ったらしい。見れば、大学生組はホステスさんたちに夢中のようである。
(……帰ってもばれなくないか、これ)
千代が逃亡のため、トイレ、と言って立ち上がりかけたところに、しゃらりとカーテンがめくられた。
反射的に動きを止めると、とんでもない美女が千代の隣に腰掛けた。
「こんばんは」
千代より年上のようだが、お肌も爪もぴかぴかのきらきらで、付け睫毛のカールの美しいこと。
(あれ、違う。つけまじゃない。自前睫毛だこれ)
清楚な雰囲気を淫靡に崩す豊満な胸。それを包む柔らかなシルクのドレスが、誂えたように似合っている。
(うわ、カレンとアビゲールと張る……)
あのふたりも相当な美人だが、目の前の美人も負けていない。百戦錬磨の落ち着いた雰囲気が、大人の魅力をこれでもかと溢れさせている。
千代は思わず、同性相手だということも忘れて凝視してしまった。
「シイナと申します。今日はどうぞ、楽しんでいってくださいませ」
そして飾らない、さらりとした声色。
柔らかく微笑んだ目許に、マリリンモンローも真っ青な泣き袋が光っている。
大学生組が彼女に目を奪われているのを背中で感じながら、千代は逃げられそうもない、と諦めた。



「……あらあ、久しぶりねえ」
クラブ『ようこ』のママ、曜子が上品な笑みを浮かべて志摩と臣を出迎えた。
特別に誂えられたVIP専用の個室に通され、志摩が煙草を取り出す。
「ここんとこずっと忙しくてねえ。あんまり間隔空いたから、お前がくたばってないか見に来たとこ」
にやりとニヒルな笑みを浮かべた志摩から、曜子が微笑んだまま煙草を取り上げる。
「相変わらず若の番犬は躾がなってないこと。いい加減捨ててきたらどうです。いい年だっていうのに性病だらけで貰い手もいませんわ」
赤い唇の横には皺が刻まれるが、それすら妙な色香を醸し出すアイテムのようになっている。今でこそ年を食った印象が拭えない曜子だが、その昔はここら一体でナンバーワンのホステスだったのだ。それこそ政界関係から、ヤのつく男まで、落ちない男はいなかった。
そんな美貌の底冷えするような笑みに、ついてきた須藤と海江田がこそこそと個室の入り口から逃げていった。
「可愛くねえ口利きやがるな曜子ぉ。てめえに今すぐ性病うつしてやってもいいんだぜ」
そんな曜子に負けず劣らずの悪い笑みを浮かべた志摩が、ばちばちと火花を散らす。
毎度毎度よくも飽きずに喧嘩する。
臣がそれを口に出したことはない。妙な痴話げんかを繰り出すこのふたりに、無口な臣が口で勝てた試しはなかったので、それが正解だろう。
「あらいやだ、あんたなんかと無駄なお喋りしてる暇ないんだったわ」
はたと我に返った曜子が、少し困ったように臣を見た。
そんな曜子の視線を流し見て、臣は煙草を灰皿に押し付けると立ち上がった。
「んな話あとだ、あと。とりあえず若は厠」
志摩が代弁する。
曜子がそれこそあとでいいわよ!と怒鳴ったのを個室の外で聞きながら、臣はトイレへと向かった。


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