風の吹かない屋上で



僕の中の記憶の最初は父から受ける折檻から始まる。

花瓶を割ると靴べらで腕を10回。
お花の稽古を忘れると竹の棒で15回。
算数の問題ひとつ間違う度にベルトでてのひらを1回。

他にもたくさん痛いことをされたけれど、それでも僕はこの家から出て行く気にはならなかった。

僕にとっての外は知らない世界だったし、僕にとっての家はパスポートの通じる唯一の国のようなものだった。
つまり小学生にして僕の世界は僕の家だけになったのだ。

中学受験に落ちた僕は父から今までにないくらい酷い折檻を受けた。
地獄が終わったあと、立てないくらいに衰弱していた僕を懸命に看病してくれたのは姉貴だった。

いつからだろう、姉貴がこうして僕を労わってくれるようになったのは。
内出血の痛みが保冷剤に吸い込まれていく優しい感覚は、いつからだろう。


姉貴と僕は血が繋がっていない。
親父が外で女を作り、デキてしまった子供らしい。
姉貴は幼い頃から母屋に隔離され、一切の温もりを与えられないまま高校生になった。
そのくせ成績は学年トップだし、容姿も申し分ない。
僕は小さい頃から折檻のあとに看病してくれる姉貴を慕っていたけれど、その反面、次期当主になるというプレッシャーを背負わずに気楽に暮らしていられる姉貴に嫉妬も感じていた。


高校受験を控えてますます精神的に追い詰められていた僕はある日姉貴に言いよった。

良いなお前は。
好きなことができるんだから。
僕なんか我慢の連続だ。
死にたいとか、思ったことないだろう。
逃げたいとか、思ったことないだろう。

そう言って僕は姉貴の目の前で剃刀で手首を切った。
死んでやるつもりだったけれど、思ったより深く切れなくて次に目が覚めたのは病院のベッドの上だった。

父は一通り俺を罵るとすぐに帰っていった。側にいてくれたのは、あの日僕が暴言を吐きかけた姉貴だった。

ごめんねと言うと、姉貴は少し笑った。綺麗な笑顔だった。胸が苦しくなるくらい素敵な笑顔だった。
姉貴は左腕の長袖を腕まくりすると僕に見せた。猫の引っかき傷のような傷が3本走っていた。

たもとの分も私が切るから。
たもとの分も私が悩むから。
だからたもとは壊れないで。

嗚咽を殺しながら僕は泣いた。



あんなことがあったのに僕は無事第一志望の高校に受かることができた。
でも、ようやく入った高校は想像以上に厳しい現実があった。
周りの奴らは信じられないくらいに頭が良くて、僕のわからない数式を詩を音読するかのようなスピードでほどいていく。
なんで理解できるんだろう。みんなが賢すぎるんだきっと。
ばかな僕には理解できないよ。

勉強だらけの日々。我慢と折檻と。
いつになれば終わるのかは分からない。家庭教師に、塾に。勉強勉強勉強勉強。

そのうち生きているのかすら分からなくなって、僕は禁止されている離れに言って姉貴に問う。

僕は生きているか。

姉貴が生きていると言ってくれると少しだけ楽になる。
そして苦しい日々はまた続く。
エンドレスリピート。きっと終わりは見えてこない。
かといって、終わらせることすらも僕は既に一度失敗している。
あの時の傷は薄くなって、目を凝らさないと見えないくらいだ。


姉は僕に壊れないでと言った。
だから僕はいつもこんな夜は布団に潜り込んで心の中で懺悔をする。

ごめんなさい。
僕が壊れてもいい。
姉貴が壊れるのは見ていて辛い。

また増えていた。姉貴の傷が。

ねぇ姉貴。
姉貴が頭よすぎて、ばかな僕には理解できないよ。

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