仄甘い感情
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隣の芝生が青く見えるのは、自分の芝生を満足に手入れ出来ていないからだ――。


「神崎、用意出来ているか?」
「はい。一応、指定された銘柄を揃えてはありますが…」

準社員の神崎絢女は、給湯室に揃えられたコーヒーと茶菓子を唖然として眺めていた。
コーヒーも茶菓子も今日の夕方に来社する、親会社の若き敏腕社長を迎えるに相応しい代物ではない。
スーパーで見掛けるミスカフェのゴールドブレンド(インスタント)に、ラッテのカスタードケーキ(個包装入)なのだ。
先方がそう指定してきたらしいが、まさかそのまま出すわけにも行くまい。

「…何かの間違いなんじゃありません?もしくは悪質な嫌がらせみたいですよ?」
「秘書の方から訊いたんだ!」
「…私、絶対イヤですからね…」
「頼むよ、神崎!正社員の子たちはみんなイヤだって言うんだ!」

絢女以外にも女性はいたが、来客の名前を聞いただけで、誰もがお茶出しを嫌がったのだ。


親会社の若き社長…前島尚嗣…三十六にして、絢女の勤める前島物流の親会社である前島商事の敏腕社長。
祖父惟嗣、父和嗣に続く三代目の偉丈夫だ。
才能に容姿が伴ってはいるが、性格に難ありと言われる。
尚嗣の怒りを買ったり、取り入ろうとして近付いたりすれば、性別・能力・階級問わず即解雇されてきた。
お茶出しに行ったもんなら、すぐにクビにされそうだと、女性社員たちは思ったらしい。

「このままじゃマズいですし…クビになるなら、ちょっとアレンジしちゃってもいいですか?」
「あ…あぁ…」

絢女にお茶出しを頼んできたのは、上司に当たる一之瀬だ。
万年胃痛に悩まされている男で、派遣社員のリストラの直後には、ついに胃に穴が開いて勤務時間中に病院に担ぎ込まれている。
最近、一円禿が見つかったと見せられているだけに、これ以上困らせるのはさすがに忍びなくもあった。


絢女は二時間ほど前から買い物に外出したり、給湯室で試行錯誤を始めていた。
尚嗣とその秘書の長谷部が到着する頃、絢女の試行錯誤も納得行く形に収まった。
応接室に入った事を知らされた絢女は、早速準備を始める。


「よくおいで下さいました」
「我が社を見て回るのは社長として当然だ」

前島物流の社長と一之瀬が向かいに座り、機嫌を損ねないようにと顔色を窺うが、尚嗣は酷くご機嫌だった。

ミスカフェとラッテを指定してきたのは、尚嗣の暇潰しに近いお遊びのようなものだった。
マズいと承知で指定したそれら。
尚嗣は自分が気に入った銘柄のコーヒーを一杯ずつネルドリップしたものしか飲まないし、茶菓子にしてもパティシエの用意したものしか口にしないのだ。

「失礼します」

ついに尚嗣が楽しみにしていた瞬間が訪れた。
女性社員がコーヒーと茶菓子を持ってやってきたのだから。

「失礼致します」

動作は合格だ。
華美でない化粧、スカートの長さも文句を付けようがない。
だが問題は今から目の前に出されるものにある。

しかしそこにも拍子抜けしてしまった。
ソーサーと皿を一つにしたようなトレイのソーサー部には、仄かに甘い香りのするコーヒー。
少し広いトレイには少量の生クリームとチョコレートソースで飾られ、半分にカットして見目よく並んだカスタードケーキ、苺とクランベリーが添えられている。
どう見ても指定していたミスカフェとラッテの代物ではない。

「…これは…指定したものとは違うかと」

秘書の長谷部がそう告げると、女性社員は緊張の『き』の字も見せない笑顔を見せた。

「いえ、ご指定の銘柄を利用してございます。お気に召さないようでしたら、そのままを用意してすぐにお持ち致しますが…」

彼女の物怖じしないその様子に、尚嗣は新しい発見をしたような気分だった。

「…いや…これで構わない」
「失礼致しました」

彼女はそのままの笑顔で退室した。
それを見送った尚嗣は、不味いと言う為にカップを手にした。
やはり仄甘い香りがしている。

少量を口に含めば、インスタントらしからぬ風味が感じられて驚いた。
ほんのりと甘みがある…コーヒーはブラックしか飲まない尚嗣も、この匙加減は気に入った。
フォークを手にケーキを一口大にカットして口に運ぶ。
生クリームもチョコレートソースもくどくなく、カスタードの甘さを中和してくれた。
苺とクランベリーは口直しにぴったりだった。
悔しいが文句は付けられなかった。

「先程の彼女は?」
「は、はい…準社員の神崎君です」
「準社員…今期中の解雇対象か?」
「はい、契約は今月いっぱいで…そうだな、一之瀬君?」
「は…はぃ…」

尚嗣は脳内で素早く計画を立てる。

「ならば今月いっぱいで前島物流解雇…」

その言葉にやはりか、と一之瀬だけは肩を落とした。

「来月からはこちらで雇う事にしよう」

長谷部は薄々感付いてはいたが、まさかと思う気持ちもあった。

「この場ですぐに彼女と契約をしたい。もう一度呼んでくれ」

応接室でそんなやり取りがされているとは思わない絢女は、すでに意気揚々と退社していた。
一之瀬のデスクに、今日付けの退職届を書き置いて――。





「あ~あ…ついに私も無職かぁ」

昨今の派遣労働者ショックの波に乗って、準社員の絢女も今月一杯で契約が終了する。
職を失う事に関しては、早いか遅いかの違いでしかないのだ。

「めげずに就活!」

絢女はコンビニで仕事情報誌を購入して、スーパーで夕飯の買い物をして帰った。




「ぃ…一之瀬君!一体どう言う事だね!」
「準社員契約は…どのような理由があっても継続しないと社長…」
「一之瀬課長?」

前島物流の社長は一方的に一之瀬を責めている。
尚嗣が溜息を付くと、長谷部が一之瀬を呼んだ。

「連絡先を教えてくれればこちらから連絡を取りますので」

手帳を手にした長谷部に一之瀬は慌てて自分も手帳を開く。
それをメモした長谷部は復唱確認すると、一之瀬に礼を言って手帳を閉じた。

「一点を覗いては貴社は合格だ」
「は、はい」
「来月一日付けで辞令を出す」

尚嗣は社長に向けて言った。

「お前はクビだ」

それだけ言って立ち上がる。

「新しい社長は追って連絡する」


足早に社屋を出ながら、車に移動しつつ、長谷部へと次の指示を出す。

「長谷部、書類を用意しに社に戻る。明日の午後、その住所に向かえ」
「はいはい」

呆れ半分な長谷部にも尚嗣は、後部座席に深く沈んだ。
口腔にはまだ仄甘い香りが残っている。
それが忘れられない。



住所に着くとそこはファミリータイプのマンションだった。
エレベータで五階に上がった一番奥が彼女の自宅らしい。
実家暮らしは厄介だと思いながら、尚嗣は自らインターホンを押した。


「はい」

不意にドアが開いて驚いた。
インターホンからのそれだと思っていた尚嗣は、ドアでしこたま爪先を打たれた。

「っ~~…」
「ごめんなさい。そんな近くにいるとは思わなかったから……あ…確か…前島社長?」
「っ…神崎絢女だな?」
「わざわざ嫌味でも言いにいらしたんですか?」
「………」

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